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2004/4/2インタビューVol.040 [議会議員] 谷村 尚祐 札幌市議会議員 「公の利益を考えて行動する市民が増えれば、必ずこの国は再生する」

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札幌市議会議員

民主党 谷村 尚祐
政党 民主党
選挙区 札幌市豊平区
初当選年 1999年
当選回数 2回(市議選2回)
公式サイト

 

学生時代は主にどんな活動をされていたのですか?


生協って、どの大学にもあるものなんでしょうか?
僕は同志社大学生協の学生委員会に所属していました。
そして学生委員会には、生協が運営しているお店への意見等を取りまとめる公聴部会や機関紙を発行する広報部会などの本来的な活動以外に、平和や地域福祉などの社会的な問題を学生の視点で考える委員会が幾つかありました。
私は、そこで日常生活から環境のことについて考えたいという環境部会に所属しておりまして、校内におけるリユース、リサイクルの推進などを提案していました。
私が入学した92年当時は、リサイクルという言葉がまだ目新しい言葉だった気がしますね。
当時同志社大の学祭(通称EVE祭)では、ごみとして大量に発生するプラスチックトレイを何とかできないかという話になって、EVE祭実行委員会、生協学生委員会環境委員会、環境経済学のゼミの3者でトレイのリサイクルを発案して、学祭ゴミゼロ運動を展開しました。
もちろん全てのゴミをなくすことは出来ませんでしたが、半減ぐらいにはなりました。
このことが学生の環境への小さな試みとして、マスコミにも取り上げられました。
学生時代にはあと、阪神大震災のボランティアに行きましたね。
生協の活動から交友範囲が広がっていたんですが、震災当時、神戸に友人がいて彼と連絡がとれないでいました。
そのため震災5日目に、彼の安否確認に、ささやかな救援物資を持って原チャリで単身神戸に向かいました。
そこでは、TVに写る以上に大変な光景が広がっていました。
時間もかかって、なんとか無事な彼を確認したものの、その後彼に引きずられるように、ボランティア活動に突入してしまい、他にもいろいろ要因があって半年以上も神戸に滞在していました。 本当は期末テストもあったので、すぐ帰る予定だったのですがそうもいかず、結局大学は1年、留年してしまいました。
神戸に入った直後は東灘区本山南中のボランティアのまとめ役をしていました。
今はボランティアコーディネーターというかっこいい言葉がありますが、そのはしりのようなものです。
若いということもあって、読売新聞やニューズウィーク、NHKなどいろいろなメディアに取り上げてもらいました。
その時、当時内閣総理大臣の特別補佐をしていた衆議院議員の田中秀征さんに眼を留めていただき、新党さきがけの方々とお付き合いをするようになりました。
その後、事態が収拾するにつれニーズも少しづつ変わり、東灘区の情報センターという、ボランティアにたいするニーズとサプライをマッチングさせる団体に移り、そこで総務的な活動をしていました。
ここでは誰かにボランティアをしたという記憶がなくて、“にわか人事課長”みたいなことをしていました。その後、新党さきがけから東灘区で出馬した神戸市議会議員候補の選挙を手伝うことになり、変革の息吹を感じる事ができました。
また、環境NGOの日本エコロジーネットワークという組織にも関わりました。
実はこの神戸市議候補は93年日本新党ブームで当選した高見裕一さんという衆議院議員の秘書をしていた方で、当時理事長をされていた環境NGO日本エコロジーネットワークから出向で神戸に来ていた方でした。
そのきっかけもあり、また僕自身も大学生協で環境を小さいながらもいじっていた事もあり、また留年したこともあり、ようするに様々な理由から学生をしながら環境NGOを手伝っていました。 そこに身をおきながら、さきがけの選挙の手伝いなどもしていました。
で、結局その日本エコロジーネットワークに就職することになりました。
後から聞いた話ですが、僕としては偶然の出会いや意志の共鳴からこのような道を歩んだのですが、実は田中さんが、僕のことを『マークしておけ』と、おっしゃっていたそうです。



いつ、どうして、どんなきっかけで政治家を志されたのですか?


全てがきっかけなのかも知れません。
ひとつは、もともと父が政治嗜好であったことです。
役職としては「旧網走市労協議長」ようするに、現在で言えば労働組合の連携組織である、連合の会長をやっていたんです。
あとは、大学の学部がそういうところであったこともあります。
そして、環境つながり、震災つながりから、新党さきがけの方々と新しい政治についてよく語ったこともきっかけですね。
特に田中秀征さんの、自民党解体論や、何回落選しても国家のために出馬し続けた姿勢などに、お会いする前から共鳴をしていたんです。
等々全てを語り尽くせないですけど、それら「きっかけ」群があって今の僕がいるように思います。



「若手議員連盟」とはどのような組織ですか?また、今後どのように生かされたらいいと思っておられますか?


私は全国若手市議会議員の会、北海道ブロックの事務局長をしているんですが、全国には約2200人の同士がいます。
会員資格は『35歳までに当選した市議会議員』です。
地域によっては月1ペースで勉強会等をしているブロックもあるんですが、北海道は地理的に離れているせいもあって、年2,3回の顔合わせと近況報告ぐらいですね。
まあ当面は、情報交換的な要素がやはり主なことになると思われます。
様々な面で情報を共有しお互いに研鑽しあうことは、すごく大切なことだと思っています。
今はITの発達もあって、多少のタイムラグはあるのですが情報共有が可能です。
例えば、距離的に直接は会えない室蘭市議の方とも、情報交換などしています。
次に、勉強会も行っています。
北海道だけでも、15名の会員がいる中で、若手が頑張っているというアピールポイントから、呼べる講師の質も良くなるんです。
一昨年はニセコ町長の逢坂さんと懇談をしています。
昨年は選挙という事もあり行っていませんけど、今後充実させていきたいですね。
それ以外に、お互いの信頼を醸成することも行っています。
若くして市議をしているもの同士の、様々な悩みを共有しています。
例えば・・・生意気だとか、世間知らずだとかの評価を受けることが多いですね。
私達は、『政治を変革する』という意志を共有しています。
党派を超えてこの国をよくしたいという気持ちは皆変わらないので、その旅の途中、お互い気が休まれる場所として“若市議の会”があればいいなと思っています。



それでは、今までで一番うれしかったことはなんですか?


日本は国という観点でいうとまだまだ存在感がない。
月並みに言うとアメリカの属国的な位置付けですよ。
やはり独立した意志をもった、他の国にも手を差し伸べる、そういう国にならないといけないなと思いますね。



そういう日本の現状を踏まえて、世界の中で広島はどうあるべきだと思いますか?


単なる御用利きでなく、政策的に行った事によって、感謝の気持ちを示していただけたことがうれしかったですね。
たとえば最近の例では、網走市から音更緑ヶ丘病院(帯広の隣町)精神科児童外来に3時間から4時間かけて毎月1回通っている子供たちがいました。
特定の疾患等の為、網走管内はこの分野においてある種の医療過疎でした。
しかし現在医療過疎に対する一つの切り札として、常設は出来ないが月数回程度なら出向いて診療する、という『サテライト診療』が存在しています。
そこで、そのサテライト診療を求める署名を集め、地元道議にも相談し、署名簿を北海道に提出しました。
その後、診療に必要な「臨床心理士」が行う月2日の網走向陽ヶ丘病院でのサテライト診療が始まりました。
これがどういうことか、どういう点ですばらしいことなのかというと、まずは、問題の当事者自らが立ち上がって、活動団体を作って署名集めをし今でも勉強会をしている、まさに新しい市民団体という点、そして従来のような『全てをよこせ』的な要求ではなくきちんと道の財政状況を勘案し、精神科児童外来開設を求めたものでもない、今出来る最善の手段であろう、サテライト診療を求めた点においてすばらしいものです。
さらにはその方々も含め、支援者が集まり、障害者支援費を利用する形で、障害児学童保育を行うNPOも立ち上がっています。
実はこの話が持ち込まれる前に交通事故が起き、入院された方もいました。
その方から本当に感謝されたことは、大変印象深く残っています。
議員をしていると、とかく自分勝手な個の利益のみを考える、“市民”足りえていない、民度の低い、住民によく会います。
これも大きな仕事をするための布石と思い、仕方なく御用聞き的に振舞う事が多々ありますが、前述の方々のように、自ら立ち上がる本当の意味での市民と一緒に活動が出来ることは、本当に嬉しいことだと思います。



尊敬されている人物はいらっしゃいますか?また、誰ですか?


政治的に少しミーハーですが、JFK(ジョン・F・ケネディ:元アメリカ大統領)かな?
“ask not what your country can do for you. ask what you can do for your country”
これは、当時の第3次世界大戦前夜とも言われた米ソ冷戦下に対し、なんとかこの危機を乗り越えようと国民に訴えた、有名な就任演説の1節です。
このcountryをcityに読み替えて訳せば、「市が何をしてくれるかではなく、市のために何が出きるかを考えよう」となり、今の国民、市民に問いかけるべき適切なフレーズだと思います。
バブル崩壊後景気対策の名のもとに投下された公共投資により経済をなんとかここまで食いつないできたものの、そのつけが今、市財政の悪化、地域経済の脆弱化となって現れています。
とりわけ北海道は大変な状況にあります。
もはや国家や市政に頼るだけでは生きられない時期にきています。 この演説の主旨にそって、市民一人ひとりが行動を起こし、あらゆる市民要求を、当事者が組織化して対応していくときだと思います。
そして行政と協働していく時代だと思います。
前述の障害児を抱えたお母さん達の会などはまさにその実践を行っているともいえます。
日本で言えば前述の田中秀征さん。
3回落選して4回目で当選。ゼロからの出発で、石にかじりついてでも今の国政を変える、ということを本気で行った日本で数少ない政治家だと思います。



谷村議員にとっての「Japan Produce」とは何ですか?


市民が立ち上がる事。誰かに任せない。
参加をし、参画をし、常に市民が主役であるという自覚を持つことだと思います。
主役である以上責任があります。
『自分勝手な個の利益のみを考える、市民足りえていない、民度の低い住民』と先ほど辛口なことを言いましたが、このような短史眼的な、個の利益に埋没した、単に住んでいるだけの住民が減り、公の利益を考えて行動する市民が増えれば、必ずこの国は再生します。
選挙のとき、『そんな生意気な事を言ったら落ちるぞ』といわれました。
しかし、その民度の低さに眼を背け、住民を無責任にした政治のつけを、財政難という形で住民が払っているともいえます。
僕は少なくともそのような迎合政治を行わず、真正面から、責任ある市民を一人でも増やすよう活動したいと考えて、様々なNPOを市内に立ち上げています。
「やれ○○作ります」「ほれ▲▲を作ります」選挙のときに語られるカラ手形にだまされない市民づくりに向け、「一緒に○○作りましょう」「一緒に▲▲しましょう」と、これからも市民を巻き込み続けます。



(インタビュー:2004-01)


1973.12.1 北海道網走市に生まれる。
1986.3 網走西小学校卒業。
1989.3 網走第2中学校卒業。
1992.3 網走南が丘高校卒業。
1992.4 同志社大学入学。在学中に大学生協理事就任、阪神大震災においてNGOで活躍する。
1997 同志社大学法学部政治学科卒業。環境NGOに就職。
1999 札幌市議会議員選挙初当選(初当選時25歳、全道最年少)現在2期目。
2005 民主党北海道“DASH政権塾”に塾生として参加。(OB会副会長を務める)
2007 北海道を斬新な視点で変えるため、網走市から札幌市豊平区を新たなステージにする。
■公職
網走市産業常任委員会委員
議会だより編集委員会副委員長
■その他
社団法人網走青年会議所理事
特定非営利活動法人グリーンシーズ理事
特定非営利活動法人夢の樹オホーツク常務理事
特定非営利活動法人こどもみらい理事
NPO推進オホーツクプラットフォーム理事
全道庁網走総支部特別執行委員
※プロフィールはインタビュー時のものです。

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