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2004/9/1インタビューVol.051 [議会議員] 村上 博 熊本市議会議員 「車椅子の議員が語る、まちづくりの視点と現代社会の問題点とは?」

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熊本市議会議員

熊本市議会 村上 博
政党 無所属
選挙区 熊本市
初当選年 1999年
当選回数 3回(市議選3回)
公式サイト

 

村上議員が立候補されたきっかけを教えて下さい。


実は、自分が最初に立候補しようと考えていたわけじゃなく、仲間が最初に1991年に立候補したんだけど、それまで熊本市議会で車椅子の議員はいなかったんだ。障害者を議会に送り込んで、熊本の政治を変えようとして選挙に関わったのがきっかけかと言えばきっかけです。
自分は最初からその立候補者の応援に関わってはいなかったんだけど、知り合いからちょっと関わって、と言われて、別に何もやっていなかったから「いいですよ」と答えたんです。そのうち、選挙の事務局長を任され、ミニ演説会や朝礼会についていって、後援者の方々と打ち合わせをするようになって、どんどん深く関わるようになっていったんです。
そのときの選挙のやり方は僕の今のやり方と同じで、草の根選挙。残念ながら400票差で落選してしまったのだけれど、全く基礎票が無い状態でひとつの選挙というものをその人はやり抜いたんだよね。
そして、次の1995年の統一地方選挙のときにもう一度みんなでその人に出馬をお願いしたけど、その人は障害の進行で体力的に自信が無い、無理だと断られたんです。
でも僕は、議会に障害者を送り込むという最初に灯した火を消したくは無かったし、1991年に応援してくれた人たちに対して、責任を果たさなければならない。そうしないと応援してくれた人たちにとても無責任な気がしてね。再度挑戦という結果を出さないと、それは政治への諦めに変わってしまうかもしれないしね。それがすごく怖かった。
1991年の選挙のときに、「障害当事者が議会に入ると熊本市の福祉は変わりますよ」、「障害者問題だけではなく、環境問題などにも取り組んでますよ」っていう訴え方をしていたんだ。
応援してくれた人たちは、「政治を変えたい」という有権者の思いを市政に反映させる人にこそ議員になって欲しいという、願望を持っている。それなのに、一度挑戦し落選したからといって、もう次はしませんと言ったら、その期待を裏切ることになる。ましてやカンパでやっているので、なおさらのことだと思ったんだ。もし、二回続けて落ちたなら、「よくがんばったね」ということで、あきらめたかもしれない。
だから、次も誰かが立候補しなければと思ったんだ。でも、誰も手を上げないし、自然の流れで自分が、ということになったんです。
しかし、結果は残念ながら、票差は開いて500票差。でもね、得票数は増えたんだ。1991年が2700票で1995年は3056票。投票率とか当選ラインの上下もあるから、ひょっとするとひょっとした得票数だったんだ。
その後の4年間は学校に行って子供達に障害者のことを理解してもらう啓発活動や障害者の権利擁護といったヒューマンネットワーク・熊本の活動しかやらなくて、4年間全く政治活動をしなかったんです。
そして1999年の統一地方選挙で再び立候補したんです。1991年、1995年と2回続けて落ちているから、辞める言い訳ができるかなとも思っていたんだけれど、得票数が3000票を超えてしまうと、自分のなかで引き下がれない気がしたんです。
選挙まで残り5ヶ月と言う時期に、もう一度立候補することを表明した。そうしたら、ヒューマンネットワーク・熊本の人や関係した人たちは、「過去2回も負けたじゃないか。この4年間、選挙の準備運動をしてきたならともかく、していないじゃないか。だから今回は取りやめて、次の2003年を目指そう。負け戦をしたくない」と皆が反対をした。
しかし障害児を持ったお父さんが、「何を言ってるんだ、これまでの得票数はすごい事なんだ。熊本の福祉や政治に足りないものを感じている人がこんなにもたくさんいる。91年、1995年にもそれだけの人がいたじゃないか。おべんちゃら云々ではなく、熊本の政治にそういう一石を投じたってことの意味を考えてほしい。ここで引き下がるのは絶対ダメだ」と強く言われた。そういうやり取りが何度かあって、1999年の立候補へと至ったんです。



1995年に落選された直後から、次も立候補しようと考えていらっしゃったんですか?


そのときは次回立候補する気持ちが明確では無かったから、選挙を総括して次回の選挙対策を練ることはしなかった。でも、自分の中で終わったという気持ちは無かったよ。
1991年のときに、選挙の事務局長として、いろんな人たちに支持をお願いして回り、カンパをしてもらい、候補者と一緒に戦ったということがあるから、そういうことに対して、とても重たいものを感じている。そういった選挙スタイルはこれまでに熊本には無かったしね。すごい動きでしょ?組織が無いわけだから。
急遽、候補者を当選させるための組織を作らねばならない、まさにゼロからの出発だった。
中心になる人たちがまず最初にお金を出し合って、そしてリーフレットや名刺を作って、こういう選挙スタイルがあるんですよって広報した。そして候補者は障害者で、その人が、市議会に行って何ができるか?まずこういうことができると思うし、皆さんもしてほしいことを是非候補者に伝えてください、と訴えた。それは、当時の熊本市では画期的なことだったと思います。
ちょっと、きっかけとしては長すぎたかもしれないけれど、1991年の選挙が無かったら、自分は議員になってなかった。きっかけをつかんでなかっただろうね。



先ほど、ヒューマンネットワーク・熊本という団体名が出てきたのですが、このヒューマンネットワーク・熊本ができたきっかけは何だったのでしょうか?。


日本で自立生活センターができたきっかけは、企業の基金を利用してアメリカで自立生活運動を勉強してきた人たちが日本に帰ってきて自立生活運動のリーダーになり、日本各地に広がって自立生活運動をはじめた。こういう動きが、自分の立候補の背景になっているのかもしれないね。
ただ、熊本でヒューマンネットワーク熊本ができたきっかけは、非常に不幸な出来事から始まったんです。
県の福祉事業団が運営する障害者用のアパートがあって、管理人が入所している人たちの年金や給料を着服していた。しかし、被害者本人は知的障害をもっており、訴えることができなかった、という事件があったんです。
県の福祉事業団は警察に告訴することで幕引きを図ったのだけど、我々としては、障害を持った彼女がそういう事件の餌食となったことに、非常に大きなショックを受けた。問題は彼女がそういう問題を訴える、相談できる仕組みがないことなんだ。だから、警察に告訴してその管理人は有罪で懲役何年何ヶ月になったとしても、障害者が権利を侵害されたときに、どこにも訴える機関がないということは、何も変わらない。
その当時、行政は管理人を告訴することで幕引きを考えたと思うけど、自分達にとってそれは見せかけの解決だと感じていた。
本当なら事件から自分たちは何をしなければならないのか、ということを行政が考えなきゃいけないと思うんだ。
僕たちはシンポジウムを開き、権利は自分たちで守らないといけないということを感じたんだ。自分たちが支援しなければいけない、というのがそのシンポジウムの開催でわかったんだね。
それならば、具体的に何をすればいいのか?ということになり、同じ障害者の悩みを聞いて一緒に解決に動くという福祉110(ひゃくとおばん)を作ろうということになった。しかし、それだけでいいのか?仲間たちは施設にいて、そして問題は施設で起きる。みんなは望んで施設に行ったのか?いや、それは違う。本当は地域で暮らしたいのではないか。それでは地域で暮らす事をどうしてしないのか?それは、やはり地域生活が怖い、どうやってヘルパーを探すのか、などを考えると、地域で暮らす踏ん切りがつかない。
ということは、地域で障害者が生活する受け皿として整備されて無いことが問題じゃないのか。それを解決するために行政に対してそれを整備しなさいと働き掛けることが最も必要なのではないかと考えたんだ。
障害者本人が地域で暮らすことを望んでも、親と施設が反対する。「何てことしてくれるんだ」「あんたが責任取るんか」「生活費はどうするんだ」とも言われた。そういうのを乗り越えながら施設から出ることを手助けするために、色んな自立生活を支援するヒューマンネットワーク・熊本を立ち上げることになったんだよね。
だからよそはアメリカから勉強してきた事を日本でも実践しようという運動の中で自立生活センターができたが、熊本はできかたが違っていたということなんだ。



村上さんが議員としてやりたいことは、ヒューマンネットワーク・熊本にいらっしゃったときのやりたいことと一緒なのでしょうか?


ある面では同じなんだけれども、ある面では違うね。今は、障害者だけではなく、住民すべての「人権」を考えているよ。
地域で暮らすという事は何も障害者だけの問題じゃなくて、段々年を取って、地域で暮らせなくなった人が、地域から引き離されて、特別擁護老人ホームという全く見知らない土地で暮らすことになる。
特別擁護老人ホームで友達は出来るかもしれないけれど、限られた人たち、限られた空間の中で一生を終えていくというのは、そういうことを経験してきた障害者たちの問題と同じように人権問題だと思うんだ。好き好んでみんなそういう施設に入っている訳じゃないでしょ?今の社会は、特別養護老人ホームに行かないで済むような地域づくり、街づくり、仕組みづくりをしてきていない。それを自分たちが障害を持ったことで、強く今の社会に問題点を感じているし、よく見えているから、自分の経験が他の人たちのためになるのならば、という思いに変わってきたね。だから、障害者のおかれている状況は確かにまだまだ悪いんだけど、その延長線上に君たちの人生があるということなんだ。
環境問題や、経済が今みたいになってくると、三位一体の改革により、国は補助金を削減して「地方自治体の責任でやってくださいよ。自分たちで工夫してやらないとだめですよ」というように話を進めてくる。それ程、今の経済は悪化しているんだ。だから、みんなが地域で暮らしていける、理想的な「国」にするということは、もう難しい状況になっているんだ。
今までは、介護の問題を特別養護老人ホームに収容することで解決出来たかのように社会は錯覚してきたんだ。でもそれは解決ではないと僕は思っている。
ところが、特別養護老人ホームに収容することすらできなくなってきた。収容する建物、収容する中で管理する人を雇うだけのお金が無いので、施設を作ることすらできない。これから、こういう人たちは地域の中で家に閉じ込められた状態で暮らしていくことになる。それはそれで地域に住んでいるにも関わらず、ミニ施設に入っているかのようになってしまう。



確かに、そういう地域は人との繋がりが見えませんね。


昔は共同で自分たちの地域をつくっていた。例えば一緒に道路作りをしましょうとか、簡易水道をみんなで作るとか。
「くやく」とは、苦しい役と書く人もいるけれど、公の役、自分たちのコミュニティを自分たちで整備して守っていこうという意味なんだよ。だから、昔はどこかの人が亡くなると、親戚の人でも何でもないけれども、みんなでお葬式をして、一緒に悲しむ。残された遺族を同じコミュニティの人たちが支えていく。四十九日を一緒にお茶を飲んで、故人の思い出を語ることで残された人をカウンセリングをしていることになる。残された人は、話を聞いてもらって気持ちが楽になる。 地域はそういう役割を果たしているんだ。
だから「どういったまちをつくるのか」ということは障害者の問題を越えて、すごく大事な支援なんだ。



これから、僕たちが大人になって世の中でいろんな仕事をしていくことになるのですが、僕たちの年代に対する期待や不安をどう思われているのかを聞かせていただけますか?


確実に生活条件が悪くなってきている中で、そのことをプラスととるか、マイナスととるかが重要なんだ。 きっとみんなは、これから先、確実に条件が悪くなっていくことを、マイナスとしてしか受けとめないんだろうけれども、「もう失うものは何も無いから、何ができるか一緒に考えようよ」という共通の認識が若者たちの中でできていくならば、それは決してマイナスなことではないと思うんだよね。
うちの子供にも話すんだけれど、生まれたときからテレビや冷蔵庫、エアコン、電子レンジがある人と、我が家にテレビが来た日、我が家に冷蔵庫が来た日を覚えている我々とではどう考えても意識が違うんだ。
そういうのを知っている僕たちは、テレビが無くなったとしても、冷蔵庫がなくなったとしても、他の手段を知っている。生き残るための「たくましさ」が、僕たちと君たちではかなり違うと思うんだ。そういう意味では、現在の若者はすごく厳しい状況にあると言えるんだ。
これから先も安定して豊かな、便利な、快適な社会を保証していく象徴として原子力発電所がある。しかし、それが故障を起こした。こういう環境の問題は、実は地球自体が悲鳴をあげているんだ。そのことをみんなが気がつけばいいんだけども、なかなか気付かない。原子力発電所の事故以外にも、みんなに警告をするような事象がいっぱいでてきて、その中でも今までの豊かな生活を象徴する原子力発電所が、各地であらゆるトラブルを起こしている。
そういうことを考えると、今の若い人たちは自分達が厳しい状況にあるということを知っているのかなと不安になるし、これから先もずっと便利で、快適で、楽な生活が出来ると思い込ませてきたことは、大人達の責任だと思う。
だから、申し訳ないけれども、自分たちの問題に早く気付いてほしい。「なぜこんな社会をつくり上げたんだ」と、大人たちを批判しても構わないから。



(インタビュー:2004-09)


1950.7.4 熊本県に生まれる。1才半で小児マヒに。以来歩けないのが当たり前という生活を過ごし、40歳近くから車いすに。
1991 ヒューマンネットワーク熊本設立に関わる。
1994、1997 ヨーロッパ交通・環境事情視察に参加。日本初のノンステップ電車導入に貢献。(97年導入)
1999 熊本市議会議員に初当選。
2003 熊本市議会議員に当選(2期目)。
2007 熊本市議会議員に当選(3期目)。
※プロフィールはインタビュー時のものです。

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