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2014/5/12インタビューVol.185 [首長] 秋葉 就一 千葉県八千代市長 「将来を見据えた政策が大切。若者は臆することなく政治に発言してください!」

185

市長

千葉県八千代市長 秋葉 就一
選挙区 千葉県八千代市

 

どんな学生時代を過ごされましたか?


10歳の頃にイギリスで暮らしていたため、英語が得意ということもあって東京外国語大学の英米語学科に入学しましたが、政治や社会についても幅広く学びたいという思いも抱いていました。学年が上がるにつれて、政治や社会に対する関心の方が強くなったので、3年生からは社会科学系のコースに進み、山之内靖先生のゼミで学びました。山之内先生のゼミには、学年でも鋭い学生なり友人なりが集まっていて、先生は一言で専門分野を説明できない程知見が広く、鋭い講義やゼミをなさる方でした。語学はそこそこにして、政治学や経済、歴史の勉強にも力を入れて学生時代を過ごしていました。やはり、大学のゼミで先生の教えを受け、同期や先輩と議論をしながら研究できたことは、今でもすごく役に立っていて、非常に大きな財産になっていると思います。ですが、もちろん勉強ばかりしていたわけではありません。大学祭では、語劇といって、1、2年生だけで、所属する学科の言語を使った劇をやることになっていました。1年生でもキャストになれるということで、1年生の時の大学祭では、アガサ・クリスティーの「検察側の証人」を主役の弁護士役で演じました。その時の大学祭では、今では不思議なくらいですがバンドのボーカルもやりま した。他にもテニスや新聞研究会などのサークルも経験しました。中学高校と続けてきたサッカーもやはり楽しいなあと思って、卒業まで続けました。日本社会では、大学時代の4年間というのは、高校までのように受験勉強に駆り立てられることもなく、会社に縛られてお金のためにあくせく働く生活でもない。そのどちらの価値観からもフリーな状況で社会を見られる、非常に貴重な時期です。いろいろな先生のお話を聞いたり、本やサイトの情報を吸収したり、たくさんの人とお話をすることで、自分の新しい視座やものの考え方が発展していく時期だと思うので、決して勉学も疎かにしてはいけないと思います。勉学をやった上で、残りの時間も活用して、今まで経験したことのない様々な活動にチャレンジし、4年間を有効に使うべきだろうなと思っています。



そもそも社会や政治や政治学に関心を抱くようになったのはなぜですか?


高校1年生の時の夏休みに、都留重人という経済学者の岩波ブックレット『環境教育:何が規範か』(1982,岩波書店)を課題に出されました。日本が、資本主義によって経済発展を遂げてきた一方で、水俣や四日市の公害などがひずみとして生じたことを学び、経済と環境は両立できるのかを高校生ながら考えたことは一つのきっかけでした。また、受験勉強で、近現代の歴史をたくさん勉強する機会を得たのも大きな理由です。それから、自分の学生時代は激変の時代でした。高校3年生の時には、チェルノブイリ原子力発電所の事故が起き、大学に入学した頃は冷戦で、入学して少ししたら、レーガン大統領とゴルバチョフ書記長の間で中距離核ミサイルの全廃という画期的な条約が成立しました。また少しして、韓国で初めての大統領選挙が行われ、ベルリンの壁が崩壊し、大学4年の時には、ソ連が崩壊しました。ダイナミックに世界の政治が動いた時代を学生として過ごしたことは自分に大きな影響を与えていると思います。



どうして議員として政治の世界に踏み出そうと思ったのですか?


大学を卒業した後、政治社会学に近いものに関心があったので、専門的に政治を研究するため、修士・博士課程に進みました。大学の卒業論文では、クラウス・オッフェという、第二次世界大戦後に政権をとることが多かった労働者政党が、1970年代頃に支持を失っていった過程を分析したドイツの政治学者の議論を研究しました。労働者政党は、1960年代後半からエコロジーや環境問題というイシューが現れる中で、労働者も環境も共に経済成長の犠牲になりやすいからと、労働者への分配の拡大を求め続ける一方で環境問題も取り上げました。これについてオッフェは、労働者の賃金が環境問題を生み出している経済活動そのものの果実であるという点で、労働者の分配拡大には環境問題の解決と矛盾があるのだから、単に環境問題を争点にしても支持の回復には繋がらないという指摘をしていました。日本ではあまりスポットの当たっていなかったこの指摘はとても重要だと思い、取り上げました。
その延長線上として、修士課程では卒論での自分のリサーチも踏まえ、イギリスを中心に、第二次世界大戦後に政権を取ることが多かった労働党が1970年代に支持を失っていった原因が労働党側にもあったことを実証する研究をしました。労働党には、中央政府を大きくして社会保障や福祉政策を拡充すべきだという考え方があって、当時それは大部分において保守党においても受容されていました。しかし実際の現場や市民派の人たちは、地方自治体にもう少し権限を委譲したり、地方の現場で活動するNPOやNGOの意思決定権を増やしたりしないと、現場ではうまくいかないという批判を労働党にも向けていました。労働者政党が行き詰まった背景には、単にオイルショックなどによる経済成長の行き詰りだけではなく、こうした理由もあったことを論じました。
博士課程では、それまでの蓄積をベースに日本の自治体などで事例研究をしようと考えていました。自分が住んでいた八千代市などをベースにケーススタディをする上で、実際に自分も市民活動や環境団体の活動に参加してみなければと思い、八千代の地元で環境団体やまちづくり系の団体に2、3加入して、活動しながら研究する二束のわらじを始めました。ちょうどその頃、自治体の焼却炉からのダイオキシンという汚染物質の排出が問題視されており、八千代市でも当時の基準値を大幅に超える高濃度のダイオキシンが排出されていると大問題になっていました。NGOなどに所属していて、客観的な根拠をもって大幅にダイオキシンを減らせる政策を提示している人がいる一方で、自治体現場では厚労省や環境省が言っていないからと、なかなか採用しない現状を目の当たりにしました。また、自治体にヒアリングに行ったり市民活動に参加したりしているうちに、八千代市は市民活動の分野で随分人手が不足しているエリアだと感じるようになりました。環境団体といってもフットワークの軽い人や役所に対して発言できる人が殆どおらず、議員でも若い人が殆どいないことに気づきました。いずれ大学院を続けて政治学の研究者になった際には、単に大学に閉じこもって研究するだけではなく、本の出版やテレビへの出演を通して世の中の政治に対して発言していきたいと思っていたけれど、それはかなり時間がかかる道のりである気がしてきました。自治体の現場では、今すぐに求められる政策を訴えられる人材が議員や職員に不足しているために、変革を実現できていないのではないかと考えました。八千代市で市議になって自ら行政を変えていく方が良いのではないか、自分だけでも市議になることで何か変えられるのではないかという思いから、博士課程を中断して議員を目指す決断をしました。



議員から市長になろうと思ったきっかけは?


合計14年と少し、4期に渡って議員をつとめました。最初に市長選に出ようかと考えたのは、トップ当選した2002年の2度目の市議選の直後です。市議選の直前に前の市長が汚職で逮捕されてしまって、市議選の1ヵ月半後くらいに市長選がありました。議員を1ヶ月半でやめて市長選に出たらどうだという声が結構あったけれども、自分ではまだ若すぎるのではないかと思って見送りました。2006年・2010年と二回市議選に出て、2010年の市長選の前には、多くの人が秋葉は立候補するのではないかと思う雰囲気にはなってきていました。
次の市長選には立候補しようと決意したのは、2012年の秋ごろからです。八千代市では、当時の市長が財政的に背伸びしすぎた市政運営を展開していました。八千代市は、総務省が出している人口が約15万から25万の規模の産業構造が似ている類似団体20市のうち、財政力指数が真ん中より少し上くらいに位置しています。前市長は、潜在的には税収が人口規模並みか少し上くらいのランクに入る自治体であることにばかり目が行き、財政力指数がある程度高いのだから何をやっても大丈夫だ、という感覚で借金をしながら新しい公共施設の建設などを拡大路線で押し進めていました。
今の日本の地方自治の仕組みでは、仮に10億の建物を建てるときに、国が例えば3億の補助金をつけて残り7億のうち借金を5割認めてくれます。つまり、2億の実力しかないのに10億の建物が建てられてしまう仕組みです。これではリスクが高いので、新しい投資は本当に必要なものに絞るのが原則です。新しい公共施設は、完成すれば光熱水費や人件費などの維持管理費と借金返済の負担が同時にかかり始めます。財政力指数のおかげで2~3年では財政破綻という事態は表面化しないけれども、このままやりすぎれば数年後には非常に苦しくなることが明らかでした。
八千代市が中位にあるのは財政力指数のみで、それ以外の財政指標はワースト級になっています。こういったデータは数年前から分かっていましたが、見てみぬふりをした市政運営がなされていました。このままでは本当に壊れそうな建物も直せなくなる、背伸びしすぎた市政運営の付けを将来世代がこれ以上負担させられるのはおかしい、それを打開するために自分が立ち上がらなければと思いました。
また議員としての活動の限界も感じていました。議員は自分と同じ意見の人が過半数いれば市長に匹敵する行動なり発言なりができますが、実際問題として自分と同じ意見の議員が数人程度に留まっていたため、そのまま賛同者を待っているのでは市政はなかなか変えられないという思いがありました。前の市長が4年待たずに参議院選挙に立候補することになったので、次の市長選には自分が立候補して、八千代市の財政再建とよい街づくりのために立ち上がることを決断しました。



八千代市をどのような市にしていきたいですか?


八千代市では、背伸びしすぎた財政運営の付けが、施設の老朽化の進行と財政状況のさらなる悪化という二つの現象として既に現れています。公共施設と財政という市政の土台が非常に危ないので、これを少しでも改善しつつ、市民サービスを拡大したいです。至難の業だけれども、この一年間はそれを全力で頑張ってきました。公共施設の問題では、学校・図書館・公民館等の公共施設について、施設の老朽化及び少子高齢化や生産年齢人口の減少とそれに伴う税収等の減少や住民ニーズの変化に鑑み、総合的な視点から公共施設の有効活用や統廃合及び長寿命化、適切な改修や維持管理など、公共施設の効果的かつ効率的な企画・管理・運営を行う、公共施設マネジメントという手法を導入しました。
まず市民や議員に公共施設に関する情報を提供しないといけないので、去年の10月には1981年の建築基準法改正前に建築された全ての公共施設の築年数、面積、耐震診断や補修の状況をとりまとめたデータを公表しました。11月には公共施設マネジメントの専門家3人を呼んで有識者会議を立ち上げ、2月に実質4ヶ月で「八千代市における公共施設再編に係る提言書」を出していただきました。これは日本全国最速のスピードだと言われましたが、30ページほどの中身の濃い提言書で、八千代市では毎年約41億を大規模改修に充てないと建物が壊れてしまうのに、過去平均約30億しか充てられておらず11億不足しているというものでした。現在はこれを次のステップに進めているところです。
財政の問題では、財政診断を専門家に委託して3月末に報告書ができ、類似団体のデータとも比較して八千代市の財政状況は非常に悪い状態にあり、借金の率だけでなく残高にも目を向けなければならないと指摘されました。これについて市民や議員を対象にした説明会を行い、ホームページでも報告書を公表しました。公共施設の老朽化対応と財政健全化に向けての取り組みが日々頭から離れない状況です。



市長としての葛藤を感じることはありますか?


まず議員から市長になったことで、発言や政策の優先順位が変わることを理解していただけず、10年前に議員として言っていたことと違うというだけで批判されることに苦しんでいます。何期か議員をつとめて市長になった人には共通していると思いますが、議員時代に言えること言っていいことは、一般的に市長のそれとは違います。議員はどうしても自分を支援してくれる地区や縁のある地区の事情が他の地区と比べてよく目についてしまいますし、それを主張するのは議員としての権利です。しかし市長は違います、特定の地区をひいきすることはできません。また時期が違うのだから、10年前と今の発言は違うことが当たり前である場合もあります。
もう一つは自分が一番に掲げた公約が、議会の数の力でブロックされてしまい、実現できなかったことです。これは地方自治体が二元代表制という、議員も市長も市民が選挙で直接選ぶ仕組みを採っていることによります。議会の過半数が、市長が出す議案に対して徹底的に反対して否決する、ということが八千代でも行われています。私の一丁目一番地の公約は、農業交流センターと道の駅を結ぶ歩行者専用橋の建設を中止して無駄を省くことでした。それを実現するために補正予算議案を議会に出したところ、否決ならば再度出せるのでまだしも、増額修正可決をされてしまいました。それに市長がどこまで対抗できるかというと、一回拒否権を行使できるだけで、その拒否権も3分の1を超える議員が賛成しなければ増額修正した議会の議決が有効になってしまいます。結局3分の1を超えなかったので議会の修正が確定してしまいました。議決権は自治体の中の最高権限なので、それに市長が歯向かえば不信任をつきつけられて辞職することになり、他の全ての公約をも反故にすることになってしまいます。そのため自分の公約を実現できなくなることを承知で、橋の建設の入札を執行せざるを得ませんでした。有権者に対して約束を守れなかったことになりますから、なぜその公約が実現しなかったかについての説明責任は果たしていきますし、他の無駄を削減することも日々努力しています。



若者の市政参画のための政策はありますか?


公約の一つに若者の意見を取り入れることを掲げました。2015年度末に現在の八千代市の5カ年計画、すなわち前期基本計画が終わります。これから二年弱で後期基本計画を作るに当たって、若者の意見を取り入れたいと思っています。これまで公募で市民に集まって議論してもらうと、一番若くて40代ということがしばしばありました。そこで、無作為抽出方式や年齢によりあらかじめ母数を決めた上で公募する方式を組み合わせることで、若い世代に少なくとも人口に比例する比率で加わってもらおうと考えています。単に会議室に集まってもらい、職員が説明した後に質問や意見を求めるというスタイルだと出てこない意見もあるはずなので、ワールドカフェ形式などの意見を出しやすい手法を取り入れて八千代市の後期基本計画を策定していきたいと思います。それから、公共施設の再編計画作りで各地域の市民の方々と議論するときにも、同じように若者世代に必ず参加してもらおうと考えています。それ以外の小さなイベントでも、若い人をバランスよく入れた運営をすることで若い人の意見を取り入れやすい自治体運営をしていきたいです。



最後に若者に期待することを教えてください。


若いときにチェルノブイリや冷戦などを経験したことが、自分の今の一つのバックボーンになっています。今の若い方々は3年前に東日本大震災や福島原発事故に不幸にも遭遇されました。それは、本来ならば、大人世代の負の遺産であろう問題かもしれないけれども、上の世代が昔決めたことだから仕方ないと割り切ってはいけません。若い方には、今分かっていることや将来確実に起こるであろうことについて自分で情報を得て、今から10年後20年後30年後に必要な政策判断が何であるかを、毎日でも一週間に何分かでも考える時間を取って欲しいと思います。選挙というタイミング以外でも政治や経済に関わることはできる場面はたくさんあります。例えば市が行っているアンケートに答えることもできるし、年齢制限の無い委員を募集している時などは、若い人にも積極的に応募してもらいたいです。右肩上がりの時代でないからといってふさぎこむのではなく、若い方も含めて議論して、一番良い道を模索していかないといけません。今まで声の大きかった人たちの意見でずるずると決められていくと一番損を被るのは若い世代です。臆することなく、若い方にはどんどん意見を言ってもらいたい。そして何か発言する以上は、自分の知識を5パーセントでも10パーセントでも増やしてから次回の発言をするサイクルをつくってもらいたい。感覚も大事だけれども、発言に説得力を持たせるために根拠となる情報をある程度は収集して、普段からアンテナを張りながら生活してもらえればと思います。



(インタビュー:2014-5-12)


1975年3月 第二八千代幼稚園卒園
1977年から1978年 ロンドンに1年在住
1981年3月 八千代市立米本南小学校卒業
1984年3月 八千代市立阿蘇中学校卒業
1987年3月 千葉県立千葉東高等学校普通科卒業
1991年3月 東京外国語大学英米語学科卒業
1994年9月 東京都立大学大学院社会科学研究科修士課程修了(政治学修士)
1995年4月から1998年3月 立教大学法学研究科政治学専攻博士課程
1998年から2007年 塾講師
1999年1月から2013年5月 八千代市議会議員(4期)
2004年7月から2013年5月 市議会会派代表
2009年 「議会は開かれているか」『議会改革白書2009年版』執筆
2010年 市議会副議長
2013年5月から現職

他に、八千代市スポーツ指導員、防火管理者、元管理組合理事長、市内の環境やまちづくりに関する複数団体。
また、全国レベルで活動している環境、自治体改革、政策提言に係るNPO団体多数に所属
※プロフィールはインタビュー時のものです。

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