ジャパンプロデューサーインタビュー

Vol.184 [首長] 鈴木 健一 三重県伊勢市長 「好きなことを極めよう」

市長

三重県伊勢市長 鈴木 健一
選挙区 三重県伊勢市
個人ホームページ

 

市長の学生時代のお話についてお聞かせください。


あまり皆さんの参考になるような学生生活ではなかったかもしれません。高校時代はながいこと空手やラグビーなどの部活に打ち込んでいました。当時を含め、政治への関心はほとんどなかったと思います。なので、大学卒業後はそのまま民間企業へ就職をしました。
私が政治へ関心を持つようになったのは、私が民間企業で働いている時期に、学生時代お世話になっていて衆議院議員に当選された知人から、「人手が足りないから手伝ってくれ」と言われ、生の政治の現場に飛び込んだ時からです。



政治家になろうと思われたきっかけ、についてお聞かせください。


政治の道に進もうと決めたきっかけは、秘書として仕事をするなかで、地元で市民の方々といろいろなお話をさせていただいたり、議員会館で様々なひとと出会ったりするなかにありました。
この時、私は初めて政治の世界を見たことに加え、東京や関東圏で暮らすのも初めてだったので大変新鮮な時期でした。そしてその中で感じた、政治と普段の生活との乖離が大変印象的だったのを覚えています。いわゆる"世間の常識"と"永田町の常識"のギャップというやつです。当時は日韓ワールドカップが開催されていて、赤坂や六本木などの繁華街では連日連夜本当にお祭り騒ぎでした。ところが、その光景をよく見てみると彼らの騒いでいるすぐとなりのコンビニエンスストアでは、ごみ箱で弁当を漁っている高齢のホームレスの方がいらっしゃるわけです。どんちゃん騒ぎしている人々と今晩の食事にすら窮している人々がこんなにも隣接している、その光景を見て私は自分の心のバランスを崩しかけるくらい強く衝撃を受けました。そしてまた、自分が末端にいる政治がこういう光景を許しているという事実に直面したとき、正直に言えばこの世界から足を洗おうかとも思いました。
そんな時に、地元で議員をやられていた兄貴分の方から、今の現実から逃げるのではなく自分の子どもや孫ができた時にその現状が少しでも改善できるように足を前向きに進めるほうがよいのではと言われ、この現実に対して何か働きかけができればと思い政治の世界へ飛び込むことに決めました。



市長になろうと思ったきっかけ、についてお聞かせください。


一番直接のきっかけは、前市長の手がけた公共事業に対する賛否でした。当時、その公共事業の計画を見ると、根拠になる数字について正確でない、いわば下駄履かせていたような数字が並んでいました。このままではこの事業は確実に赤字になってしまう。とはいえもう引くこともリスクを伴う状況であったのも事実で、そうであるなら「赤字となるかもしれない」という事実を伝えた上できちんと真正面から必要性を説けばよいではないかと私は考え、当時の市長に訴えました。しかし、聞き入れてもらえないどころか、意見そのものを無かったことにされるなどしたことが、出馬の一番の大義名分でした。

また、市議会議員時代の平成18年に財政再建団体である夕張市に視察に行ったことも大きな転機だったと思います。夕張市は、国策で石炭工業が発展していた時代には10万人近い人口を擁する自治体でしたが、これまた国策で石炭業が衰退するとその煽りをうけ、自分の足では立っていられなくなってしまった自治体ですが、同時に人口が大量に減少した少子高齢化社会の進行がなにを及ぼすのかという点について、夕張市の現状は大変リアリティをもった答えをもっていました。それは「子どもの声が全く聞こえない」という恐怖感であり、「日本全国、東名阪博多以外の自治体は須く将来こうなる危機と直面しているのだ」という焦りでした。
伊勢市とて、その問題が他人事には思えず、私は自分の自治体の財政状態をもう一度見直してみたいと思いました。ほとんど2ヶ月間30年分の市のお金の動きをひたすらパソコンに打ち込んで研究し、それから20年後にどのような状況に陥るのか予想しました。
この結果を公表した時は大きな批判を伴いましたが、現在の伊勢市で少子高齢化社会が如何に進行しているのかを如実にあらわしていました。
数値でいうと、当時の高齢化率が23%だった伊勢市ですが、これが例えば新興住宅地だとたったの5%なのに、元気がなくなっていた中心市街地では40%を超えていました。そのため、この数字は単に高齢化率のみを示しているだけでなく、街の元気さと人口構造がリンクしていると感じ、年齢構造にあわせて、例えば若者が多ければ託児施設を作り、高齢者がおおければケアセンターをつくるなどといったきめ細かい街のサービスをつくっていかねばならないという使命感に襲われたこともひとつの要因だと思います。

今まで可視化されていなかった行政を数字で可視化していく。このことに真摯に取り組んでいきたいとおもっています。



町に若者がいないのは問題ですか。


問題かと言われれば問題だと思うというのが率直なところですが、それ以上に明治維新以降については日本の人口の増え方が異常だったというほうが正しいように思います。そういう面では、減っていくのはある部分必然的だとも捉えられるわけで、それに応じたまちづくりをしていかなければならないというのは事実だと思います。
とはいえ若い世代がいないというのは、地域のコミュニティ・組織という単位を考えた時に「先が見えてこない。」という意味で大変重要な問題であるとも思っています。特に今年は、伊勢神宮の式年遷宮のタイミングだったこともあり、商業の分野を中心に後継者がどんどん町に帰ってきています。このきっかけをうまく活かし20年後30年後を見越した行政のプランニングが必要だと感じています。



どんな市にしてきたいかについてお聞かせください。


一番の夢は、世界に対して開かれる町でありたいと思っています。伊勢市には伊勢神宮がありますが、このお伊勢さんは2000年以上ずっと五穀豊穣と国家安寧を祈り続けている場所です。このお伊勢さんのもつ精神を世界へ発信することで、人間が人間を傷つけていく社会をなくしていきたいと思っています。
これと重なる部分もあるのですが、市でやっていきたいことの一つに伊勢市を国際観光都市にしていきたいという思いが有ります。
先ほどの伊勢神宮の話でいうと、国内では今年の式年遷宮のこともあり大変有名な神社なのですが、国境を一歩でるとほとんど知られていないのが現状です。今回の式年遷宮の時も外国人の訪問者数は全体のわずか0.5パーセントくらいしかありません。その0.5%も大使や領事の方が中心という状況でした。なので、市では地元の皇學館大學提携し、皇學館大学と交流のある海外の大学の方数十名を短期留学の形でお呼びして日本文化として一緒にまなんでもらうなど様々な普及活動をしています。
またそれ以外に観光振興基本計画を策定し、バリアフリー観光とスポーツ観光を軸にして、多様なニーズに合わせた観光を提供していきたいと思っています。
以上のことと合わせて、今度は内向きの部分になりますが、みんなが助け合える街であることです。いくらお客さんに喜んでもらっても住民が喜ばないと意味がありません。

私は、小さい頃から、いつしか世界みんなが平和で仲良くになったらいいなという夢がありました。そのために、この伊勢市に何かできることはないかを模索している毎日です。
そして、そのためには伊勢の街が元気であることは必要不可欠であると考えています。



市長としての葛藤を感じる瞬間についてお聞かせください。


常に葛藤の連続ですね。常にいろんな人と共同生活を送っていて最大公約数をさがしていく、そんな生活が市長としての仕事の毎日です。
最近だと、市立伊勢病院をどうしていくかという問題に関しての葛藤が大きいです。
一度は、負のスパイラルにはまったこの病院を、廃院にするところまで考えました。
しかし、夕張市の視察を通して、救急診療ができなくなった街は人口がどっと減ってしまうことを学びました。そして最終的に、この高齢化社会の中で、仮に伊勢病院がなくなったとしたら、たとえ一からであっても、自分は病院を作りたいなと思いました。
平成30年5月に開院を予定している市立伊勢総合病院の新病院の総建設費は114億円です。伊勢市の一般会計は403億円ですからかなりの費用と言えます。
現在の病院の経営再建をしながら新病院の計画も立てるため、市役所でもトップクラスの能力のある職員チームで問題点を検討しています。
たとえば、医師の給与が最低水準であったのを改善しようとしています。

幸いにして開業医が比較的に多く、たとえば出産難民などはありません。伊勢赤十字病院がありますので、高度救急医療はそちらでカバーできています。

また、予防医療にも力を入れてきたいと思います。元気で健康に長生きするための支援をどうするか。これは行政にしかできないことです。

そのほかにも、行政の首長として組織を動かしていくものとしての葛藤、選挙と言う制度を通じた選挙上の葛藤など様々な葛藤があります。
これらは、市長だからどうというよりも、社会に出れば誰もが大なり小なり持つものだと思います。何かに挑戦すれば、壁やハードルが出てくるのは当然ですからね。



若者を市政に参画(単なる参加ではなく)させるための施策がございましたら教えてください。


子どもの力を借りてできることは大きいなというのを実感しています。
現在の若者は比較的積極的に市政に参加してくれていますので、更に子どもたちの力を借りられるような政策を発展させて政策にしていきたいと思います。
たとえば小学生が信号無視を減らすための事業を考案してくれました。ボタンを押してから信号が青に変わるまでの間、あとどれくらいで青になるかが視覚的にわかるタイプの信号機であれば、信号無視をする人も減るだろうということでした。そこで、翌年から事業を実現させた例もありました。
また市内の公園に時計台を建てて欲しいという要望を子どもたちからもらいました。これも小学校で全校議論し合意形成をするという素晴らしい過程の結果です。

近隣の高校では、日本テレビのドラマ『高校生レストラン』のモデルとなった相可高等学校が地元の農作物を使った製品をつくってくれています。またメーカーと協同で海外観光客向けの土産の製作に取り組む高校、ソーラーカーの製作に励んでいる高校もあります。若者の定住化を促進するためには地域医療であったり地域の自治・コミュニティであったりいろんなものの質を上げることが大事です。
最近、いろんな自治体で医療費・教育費などの一部無料化によるサービス合戦が激しいですが、無料化ばかりで地域が育っていくのかと疑問にも感じます。サービスのクオリティについても考えなくてはいけません。
また総務省の定住自立圏構想にもあるように広域連携を視野に入れた交通利便性の向上なども重要です。



伊勢の地のものでお勧めはありますか?


伊勢エビのような豪華なものもありますが、概ね物価は安く、しかしとても美味しく、コストパフォーマンスが高いのが伊勢市の特徴です。庶民的な食べ物で言いますと、今の時期は鳥羽の方で採れた「めかぶ」がスーパーに並んでいます。最高に美味しいですよ。



若者に対して期待すること(単に頑張れでなく具体的にどう在ってほしいか?どう行動してほしいか)をお聞かせください。


若者は、好きなことをするのが一番だと思います。恋愛、スポーツ、食べることでも何でも、好きなことをやっていくことで、人間性の芯の太さというものが育まれると思います。
のびのびと育つためにも、スマホを置いて街に出ましょう。
伊勢から出られる人は、出て行ってもいいのです。他地域からでも、ふるさと伊勢市のためにしていただけることはあると思うのです。
時には悶々としながらも、好きなことを極めていってください。



(インタビュー:2014-2-17)


生年月日 1975年12月3日

1975年 伊勢市に生まれる
1994年 三重県立伊勢高等学校卒業
1999年 天理大学国際文化学部ロシア学科卒業
1999年 株式会社ラウンドワン入社
2001年 株式会社ラウンドワン退社
2001年 衆議院議員公設秘書入所
2003年 衆議院議員公設秘書退所
2003年 伊勢市議会議員(一期)当選就任
2005年 伊勢市議会議員(二期)当選就任
2009年 伊勢市長選挙立候補のため失職
2009年 伊勢市長 当選就任
※プロフィールはインタビュー時のものです。

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