ジャパンプロデューサーインタビュー

Vol.199 [首長] 小林 嘉文 岡山県笠岡市長 「就職できる環境が生み出す家族の絆」

〝就職できる環境が生み出す家族の絆〟
笠岡市長 小林嘉文
JAPAN PRODUCER INTERVIEW vol.199

岡山県の西南部に位置し、西は広島県福山市と隣接している笠岡市。
福山都市圏を構成する都市の一つである笠岡市で
産業振興に取り組む小林市長にお話伺いました!

< 商社、社長を経て、笠岡市長へ >

ー伊藤忠商事や海苔の製造販売会社の社長、そして市長と様々な経験をされていますが、学生時代からこのような仕事をされたいと思っていたのですか。

小林市長:

笠岡で生まれ高校までは笠岡で育ちました。その後、明治大学へ進学していく中で、なんとなく世の中の人のために働きたいという想いが芽生えてきました。ですから、当時から政治家というのも選択肢の一つかなとぼやっと思っていました。政治家になるためにどういうことをしていけばいいのかというのを学生の頃に考えたときに、議員秘書になることや、松下政経塾を受けること、一般企業に就職することなど、いくつかの選択肢が思いつきました。

その中で、海外への憧れというのもあったので、最終的に自分が選んだのが伊藤忠商事で貿易関係の仕事をすることでした。伊藤忠商事では海外勤務を15年していたので、東京にいるよりも海外にいることの方が多かったですね。そんな中で事業も任せてもらい経験を積んでいきました。

ー最初は伊藤忠で働くという決断をされたわけですが、市長になろうと思ったきっかけとは何だったのでしょうか。

小林市長:

私が48歳になった時に、父親がちょうど80歳だったのですが、家業の海苔屋を継いでほしいということを言われたんです。今思うと、父親は私がいつ笠岡に帰ってくるのかとずっと考えていたんでしょうね。そんな父親の想いを聞いて自分も涙が出てきまして、父親を大切にしないといけないと思い、会社を辞めて笠岡市に戻ってきました。
しかし、30年ぶりに笠岡市に帰ってみると、人口が減ってるんですよ。日本でも2008年くらいから緩やかに人口減少はしていますが、笠岡市の人口のピークはなんと昭和35年なんですよ。それから、地方の過疎化してる街を象徴するかのような寂しい街になってしまっていました。

そんな中で、市長になる大きな契機は、当時の笠岡市長に「まちづくりのお手伝いをさせて欲しい」というお願いの手紙を送ると、「これはすごい人材だ」ということでまちづくりの会合に入れてくれたり、意見を言えるようにしてくれたりしました。しかし、私が言ってもなかなかまちづくりは動かないんですね。それでも、諦めずにねちっこく言い続けていると周りからも認められるようになりました。

その後、市長が替わりまして、この当時の市長にも前の市長と同じように手紙を何通も送り、まちづくりを進めていくように言っていました。しかし、それでもまちづくりはなかなか上手くいかず、大変だと思っていたところ「あんたが市長選挙にでたらいいじゃないか」という声があって、その声に後押しされて市長選にでるということになりました。

< 家族の絆を取り戻す >

ー小林市長が力を入れている家族の絆を取り戻すということについて教えてください。

小林市長:

私の掲げる最終目標は「家族の絆を取り戻す」ということです。ひと家族でも多くのご家庭で子ども達が笠岡に帰ってきて就職し2世代、3世代と共に住んでもらいたいと思っています。

多くの地域で問題となっていることではありますが、特に笠岡には大学や専門学校が市内にないんですよ。ですから卒業したらほとんど笠岡を離れていくんです。多くの若者が市外、県外へと進学してしまいます。また、就職先についても同様で、大手の企業などは東京と大阪に本社が集中していますよね。東京や大阪に本社を置いてない場合もありますが、そのような会社も大体が県の都市に会社を置いています。例えば岡山県であれば倉敷市や岡山市に数百人の会社が置かれています。やはり小さい会社は給料も待遇もあまり良くないので、結局笠岡を離れて就職してしまうんですよ。

ーそのような最終目標を掲げるようになったきっかけなどはありますか?

小林市長:

今笠岡市の高齢化率は35%なんです。そして、そのおじいちゃんやおばあちゃん達が私のところに来てこう言うんですよ。「最近は自動車の踏み間違えでの事故も多いし運転免許は返納してしまったんです。でも、これから病院やスーパーでの買い物はどうすればいいのでしょうか。」と。それに対して私は「それは家族がいるでしょう。」と言ったわけなんですよ。すると、またおばあちゃんが「娘は東京で就職して帰ってこないんですよ」って言っていたんです。それを聞いて、だったら私が解決するしかないと思ったわけです。

そこで、公共交通を充実させたりもしましたが、もし息子さんや娘さんが都会にいかずに自宅にいたらこんな問題も起こらないんです。若者が笠岡市に戻り、高齢者を支え、行政のコストを削減し、また若者が笠岡市に戻ってくる施策に力を入れるという循環をつくり上げたいと思い、家族の絆を取り戻すことを最終目標にかかげているのです。

ー家族の絆を取り戻すためにどのように取り組みをされるのか教えてください。

小林市長:

やっぱり働く場所を創らないといけないですね。その中で、笠岡が恵まれているなと思うことがあります。例えば、山陽本線が通り、新幹線の「のぞみ」に13分くらいで乗ることもできる。また、国が100億円かけて笠岡バイパス道路を建設予定です。山陽自動車道にある篠坂パーキングエリアにインターチェンジを作る許可もできました。港ということで海運も整っている。このように、国は笠岡に大きな投資をしており、インフラ整備も整っている。さらに、倉敷市と福山市も近くにあり、笠岡市の周りで100万人の人口を抱えています。

ここまでのことを踏まえると、土地もインフラも雇用もあるということで、やはり企業誘致をしていかなければならないですね。また、福山市にはJFEスチールがあったりと製鉄業のダウンストリームを狙っていくこともできると思っています。そうやって働く場を創ることで若者達が帰ってきて2世代、3世代と一緒に住むようになると思っています。

< 学生へのメッセージ >

ー最後に学生に対してのメッセージを伺ってもよろしいでしょうか。

小林市長:

地方自治体の市町村長は若者が帰ってくるように頑張っています。地方にぜひ目を向けて頂いて、おじいちゃんやおばあちゃん、お母さんにお父さんがいるので、家族の絆を取り戻して欲しい。そしてそうすることによって、また色んな発見や温かみや家族愛が見つかるので、地元に戻ってきて欲しいと思っています。

(インタビュー:2022-01-18)

プロフィール

■生年月日 昭和35年8月29日
■略歴
昭和54年3月 笠岡高等学校卒業
昭和58年3月 明治大学商学部卒業
昭和58年4月 伊藤忠商事(株)入社
昭和62年   上海復旦大学国際経済学部修了
平成13年   ハーバード大学経営大学院TGMP修了
平成21年8月 小林産業株式会社代表取締役社長就任
平成28年3月 小林産業株式会社代表取締役社長退任
平成28年4月 笠岡市長就任(現在2期目)

※プロフィールはインタビュー時のものです。
小林市長とのインタビューの様子
2022年1月18日 zoomにて
(上:笠岡市長 下:ドットジェイピースタッフ)

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