ジャパンプロデューサーインタビュー

Vol.012 [国会議員] 菅 直人 衆議院議員 「僕は小さい頃も大学時代も政治家にはまったく憧れていなかったんです」

衆議院議員

民主党 菅 直人
政党 民主党
選挙区 東京都18区
初当選年 1980年
当選回数 9回(衆議院選9回)
公式サイト
YAHOO!みんなの政治

 

大学生のころは政治家ではなく科学者志望でノーベル賞を目指して研究していると聞いているが本当ですか?


ノーベル賞を目指していた、というほどではないですが(笑)もともと小さいころから科学者への憧れはありましたね。
わたしのなかに二つ興味というか要素があるんです。
一つは科学者のように実験的なものに興味を持つ自分。科学者になるとか、特許のしごとをするとか、そういう自分ですね。
同時にやはり社会のいろんなことに興味を持つ自分もいるんです。昔から社会的な関心と科学的な関心の二つが僕のなかにありました。
で、理系の大学に進学し科学の道を進んでいたのですが当時、大学は学生運動の真っ只中だったんです。
半年くらいバリケートがあったり、大学がストライキになったりした。
僕はその頃、卒業をしなければいけない学年になっていたんだけど、学内を改革する活動に参加し、走り回っているうちに卒業をし損ねて、だんだんと社会的な興味に従い、市民活動に熱心になっていった。学生時代の市民運動への関わりは僕が政治家への道を進む最初の大きな経験でしたね。



そのまま政治家に?


いやいや、僕はその頃は政治家になろうとはまったく思っていなかったんです。
小さいころも政治家には憧れてはいなかったんです。どちらかといえば科学者になりたかった。だから、大学卒業時も科学への興味は残っていて、研究の道を進もうとも思っていました。
でも、科学者になるには大学に残って研究するか、どこかに勤めて研究職をさせてもらうかなんですけど、大学で勉強なんてしないんだから大学に残れるわけはなく(笑)、就職することになりました。
でも、僕はさきほど言ったように市民運動などに参加し、社会にすごい関心を持ち出していたところだったんです。ですので、就職しても、すこし自分が自由に動ける時間がほしいと思い、ある特許事務所に就職しました。
そこでは4年間、ちゃんとしたサラリーマンをやりましたよ。毎朝、タイムカードを押してました(笑)。で、自由な時間で市川房江さんというさまざまな市民運動をなさっていた方の選挙のお手伝いをさせてもらったんです。
それが社会的意味での政治に参加するキッカケですね。はじめて選挙を経験しました。
そして、ちょうど政治への興味が高まっているときにロッキード事件がおきたんです。いまの一連の議員の汚職の問題とまったく同じだよね。政治汚職の問題がおきたんです。やはり、いまの日本の政治は違うんじゃないか、という怒りをもちました。
ただ、どうしようもなかったんです。自民党もダメだったけど、そのころ、野党もだらしなかったんです(笑)。
じゃあ、おれたちでやるしかない、という話になりました。いろんな人達に出馬するよう声をかけていたら、じゃあお前がやれといわれ(笑)出馬することになったんです。これがそのころのポスターです。あら、若いなあ(笑)。
ぼくは政治家になりたいとは思っていなかったけれど、自分の興味のある分野の活動をしてたら、いつのまにか政治家への道にすすんでいた。いつのまにかスピンアウトして政治家になっていたんです(笑)。



アウトなんですか(笑)!?最大野党の幹事長なのに!?まさか、政治家になられたことに後悔とかはないですよね?


まあ、たまに悩むけど(笑)。冗談冗談(笑)。でも、順番を間違えましたね。僕のライフプランとしては科学者として大発明をして、大金持ちになって、それで余裕があったら政治家になる、そういう計画だったんです。順番を間違えてさきに政治家になってしまった。
実際、僕も学生時代発明をしてるんですよ。何だと思う?
僕の発明はマージャンの点数を数える機械なんです(笑)。三十年前なんて機械なんて全然なかったから、マージャンの点数を皮切りに日本中のものをどんどん電子化していく計画でした。もしうまくいってればビルゲイツまで行かなくても、僕はかなりな大金持ちになるはずだったんです(笑)。ちょっと早かったんだな、僕が生まれるのが(笑)。



その発明から想像するに菅議員は真面目なほうではなかった(笑)?


まあ、そうだね(笑)。



マージャンは強かったが(笑)。


いや、マージャンも強くないんだよ(笑)。強かったらすぐに点数なんて計算できるんだ。でも僕はマージャンがあまり得意ではなくて点数計算も苦手だった。マージャンが強くないから発明したんだ。



実際に作ったんですか?


作りましたよ、試作品を。研究室にいるやつをつかまえて半田ゴテとか使って。
そして、任天堂とか企業にも実際に売り込みに行きました。ところが、売れなかった。もっと小さくしてこい、といわれた。小型化するにはLSI(集積回路)などが必要となる。そうすると4~5000万円のお金が必要となるんだ。
どんな発明も製品化するときが大変なんです。科学者はどうやって発明を製品化するかというと出資してもらうわけです。企業やお金持ちの人に。で、僕も出資者を探したんですけど、僕の発明には誰も出資してくれるひとガいなかった(笑)。だから政治家になったんです(笑)。



なるほど(笑)。もし、もう一度人生をやり直せるとしたら科学者になりますか?


可能性はあるね。



このまま行けば総理大臣になるかもしれないのに(笑)!?


科学者として生きる人生も面白そうじゃない。



科学と政治の世界って通じるところもあるんですか?


いや、まったく違う分野だということが心地よいですね。中途半端に一致しているとどうしても同じ考え方になってしまって視野が広がらない気がしますね。弁護士なんか政治の世界に入ってもあまり視野が広がらないと思います。同じ法律を扱う仕事ですからね。
それに対し科学はまったく政治の世界と離れていますよね。配列とか回路とか。政治には政治の哲学があり、科学には科学の哲学がある。僕は非常にエキサイティングな二つの専門分野を持っていると思っています。
人間の関係性である政治の世界で僕がバランスのよい発想を続けられるのは科学というまったく違う専門分野を持っているからかもしれません。



なるほど。菅議員は何度も落選なさっていますよね?浪人中は大変でしたか?


大変に決まってるじゃない(笑)。女房、子供がいるのに生活費がないし。女房も不安だっただろうし。三回出馬して三回落ちたんですが、四回目はうちの女房に「何回も落ちて・・・もうやらないんでしょ?」と言われていたんです。他のみんなからはもう一度出馬してほしい、と言われていたんですが、女房だけがずっと反対しました。でも、僕があきらめないのを見て、結局、根負けして出馬させてくれました(笑)。
「やった!」とも思いましたが(笑)、女房には不安な思いをさせてしまいましたね。



菅議員自身は政治という新しい世界に入るときに不安はなかったのですか?


僕が政治の世界にたどり着いたのは慣性の法則ですから(笑)。流されるままたどり着いた(笑)。
ま、それは冗談としても僕は先が見える人生はあまり楽しいとは思えないんです。自分の未来が見えたとき、「ああ、よかった、安心した」と言える人間ではないんです。
まあ、歳をとれば危ない道を選ばないように誰でもそうなるのかもしれないけれど、僕はまだまだ若いから(笑)。不安な状況のほうが面白くて精神的にいい。
僕自身、まず挑戦してみてダメならそのときに考えようという人間なんです。



さて、菅議員も結構紆余曲折の末、政治家になったことを知って、何だか驚きました(笑)。僕の周りにも政治家になりたいという若い人間が結構いるんですが、そういう若い人はすぐに政治家になったほうがいいと思いますか?それとも、一度菅議員のように社会に出てから政治家になったほうがいいですか?


僕は社会経験が必要だと思いますね。仕事をしたほうがいい。一度くらいタイムカードを押す生活をしたほうがいいと思いますね。
なぜなら、政治という世界は、厳しいけれど甘いんです。見方によっては非常に甘い世界なんです。言い訳が利くんですよ。考えて見てください。ある会社のセールスマンになったときに、普段、いくら大きなことを言っていたとしても、同僚の新人が10台売っていて、自分が1台も売れなかったら、その人が言うことなんて誰も聞いてくれないですよね。むしろ、新人の言うことを採用していきますよ、当然。でも、政治の世界は、もし成果を上げられなくても、「いや、この政策はナントカであの党のあの大物が反対しているから・・・」と言い訳が利くんですよ。こういうの、よく見る光景でしょう(笑)。
その点、ビジネスの世界は基準がはっきりしているでしょう。例えば、僕が特許事務所に入ったときのことです。商談のときに目の前にドーンと70ページくらいの英語の明細書を出されて、これを訳しなさいと言われたことがありました。大学時代だって、僕は英語が得意ではなかったから、6ページくらいでヒーヒー言ってたのに、70ページも大変だよねえ(笑)。
でも、できないなんて言い訳すれば、会社ではもう使いものにならないってことになるんですから、そのときはもう必死になってやりましたよ(笑)。こういった具合に、ビジネスの世界では最低限やらなければいけないことがあるじゃないですか。それを越えて、自分の考えることを実現させなければならない。
そういう厳しさを知るために、一度社会に出たほうがいいと思いますね。



管さんは若い学生を自分の事務所で勉強させたり、政治に触れる機会を提供していますが、特別な思い入れとかはあるんですか?


そうですね。それこそ、ドットジェイピーのハシリじゃないですけど、昔から事務所にいろんな若い人が来ていましたね。いまではマスコミの第一線で活躍しているような方とかが学生時代に僕の活動をサポートしてくれたりしてくれましたね。
こちらをご覧ください。(分厚いファイルを本棚から取り出す・・・)これは昔の週刊プレイボーイの記事なんですが、当時僕は週刊プレイボーイに1ページ連載をもらっていたんですね。で、そのページを僕のもとに手伝いに来てくれた学生のみなさんに作ってもらっていました。彼らは編集会議をして、インタビューの企画など、いま君たちがやっているような活動をやってくれました。
僕の国会での質問のときも彼らが徹底的に調べてくれた資料を使ったこともあります。いつの時代も若者の特権はチャレンジできることです。若者がチャレンジできる場は提供したいと常に思ってます。



菅議員は政治に関して、とてもシンプルな哲学を持っているように思えるのですが。


そうですね。僕が創りたいのは『最小不幸社会』なんです。
僕は高校時代に『素晴らしい新世界』(*)という本を父に薦められて読みました。そこでは、政府にすべてを管理された社会が書かれていて、政府の管理によってすべての人が幸福なんですね。人間を強制的に幸せにする社会なんです。
でも、徹底的な政府の管理によるユートピア社会は、僕にはものすごい非人間的な社会に見えました。結局、人間は神様やロボットではないんですね。でも、だからこそ、多様性も可能性も生まれるんです。
そして、だからこそ、政治が必要なんです。
その間違いも犯す人間が住む社会のなかで僕が成し遂げたいのは、「最小不幸社会」なんです。人間を強制的に幸福にする社会ではないんです。それをやってしまったら、人間であることも否定してしまう。ある程度以上幸福になるのは個人の努力によるべきだと僕は思っています。多様性のある人々の住む社会で個人の努力だけではうまくいかない問題を政治で解決すること。それが最小不幸社会です。
あなたの一番好きな女の子をあなたが自分の彼女にできるかどうかは残念ながら政治の問題ではないです(笑)。それは自分の努力によりますからね。ただ、可能性のある子供たちがちかくに学校がなくて勉強できない、自分の可能性を伸ばせない。そういった問題は政治でカヴァーできる訳です。
*『素晴らしい新世界』・・・・オルダス・ハックレー著
近未来を舞台にしたSF小説。すべての国民は国営の工場で遺伝子操作されて生まれ、みな平等で、国民の不満は政府から与えられる麻薬によって解消されるために争いもないというユートピアを描いた作品。
1932年(昭和7年)に書かれた作品でありがなら、差別、洗脳、遺伝子操作、クローン人間など現在の社会問題になっている事柄をすでに扱っていることで有名。



菅議員は日本をどういう風に創り変えたいですか?


これは非常にはっきりしてますね。官僚主権国家から国民主権国家へと変えることです。
日本では明治以降、戦後も含めて国民が選んだ国会議員が中心の政治になっていないんですね。
それもある時期までうまく機能していましたけれど、いまはうまく機能していない。むしろ、弊害がたくさん出てきている。
たとえば、僕は薬害エイズ問題のとき、厚生省にあった薬害エイズに関する資料を公開しました。結果、薬害エイズ問題が解決に向かって進展しましたけど、これは、官僚主権国家なら有り得ないわけですよ。
厚生大臣になったときに、僕は被告だったんです。被告が原告に有利になるような資料を自らを渡すなんてことはありえないでしょう?
なぜ僕ができたかと言うと、自分のことを国民に選ばれた大臣だ、と思ったからです。官僚主権国家であれば、厚生省の利益を考えてかならず資料を隠そうとしますよ。だから現在の日本の政治は根本的に間違っているんです。
僕の実現したいのは現在の官僚主権国家を国民主権国家へと変えることです。



(インタビュー:2002-09)


1946.10.10 山口県宇部市に生まれる。
1965.3 都立小山台高校卒業。
1970.3 東京工業大学理学部応用物理学科卒業。
1974 選挙を市民の手に取り戻そうと、故・市川房枝さんを参議院全国区に担ぎ出し、選挙事務長として活躍。菅特許事務所開業。
1977 故江田三郎氏の要請を受け、社会市民連合に参加。
1978 社会民主連合を結成、副代表に就任。
1980.6.22 衆参ダブル選挙で東京7区から立候補し初当選。丸山ワクチン許認可問題をきっかけに不明朗な薬事行政を追及。
1993 5選を果たし、40年ぶりの政権交代を実現し、連立与党に参加。院内会派「さきがけ日本新党」に所属、衆議院外務委員長に就任。
1994 新党さきがけに入党。政調会長となる。
1996.1 第1次橋本内閣で厚生大臣に就任。
1996.9.28 鳩山由紀夫氏らと民主党の結成に参加。二人代表の一人に。
1998.4 新民主党の代表就任。
1999.9 民主党政策調査会長に就任。
2000.9 民主党幹事長に就任。
2003.9 自由党と合併。
2005.9 衆議院選挙で9期目の当選。
※プロフィールはインタビュー時のものです。

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