ジャパンプロデューサーインタビュー

Vol.019 [議会議員] 齋藤 武次郎 倉敷市議会議員 「与えるだけでも、与えられるだけでもダメなんだ」

倉敷市議会議員

倉敷市議会 齋藤 武次郎
政党 無所属
選挙区 岡山県倉敷市
初当選年 1993年
当選回数 4回(市議選4回)
公式サイト

 

齋藤議員は、県の職員から議員に転向されましたが、どうして議員になろうと思われたのですか?


難しいなぁ。大きく言うと2つかな。
1つが、私が15歳の時、家族が倒産し、今でいう夜逃げっていうか、一家離散という経験をしました。
そのときに周囲の皆さんや地域の皆さんに助けられた経験がありますから、まあ、もちろん親も子どもを育てますけど、地域や周囲の人も人を育てていくという経験をしたので、いつか恩返しができることをしたいなあと思って公務員になったんですよね。
けど、ちょうど私が公務員になったのは、景気のいいときで、後々に大きく報道された官官接待や不正出張など色々な問題があった頃で、役所の中で実際に働いていて、市民第一の行政ではないのではないかという疑問を感じたということです。
もう1つは、その頃は、まだ福祉というものがそんなに重きを置かれていなかった時代だったんですよ。
どっちかというと建設だとか農業だとかっていうことや、当時は瀬戸大橋博覧会とかのイベント、そういった分野が行政の主流といった感じで、私のやりたかったことと少し違うな、重きの置き方が違うんじゃないかなあ、という違和感を抱いていました。



29歳という若さで県職員を退職されてから、選挙に臨まれたわけですが、どういった選挙活動をされたのですか?


当時の退職金のみで選挙をスタートしたんですよ。
まず、私はお金をかけない選挙をすることが政治をクリーンにするきっかけになると思ったんですよね。
お金をかけない選挙とは手作り選挙です。簡易印刷機で手作りの新聞を作ったりとかね。
それと、当時私は20代でしたから、20代の人がお金をもって選挙をするなんてこと自体異常ですから、ごく当然に、20代の人がお金をかけずに選挙をすることが、将来、私たちに続く若い人たちが選挙に出るきっかけというか後押しになればという想いがありました。
それと市民の皆さんに「票も入れていただこう、応援もしていただこう、お金も負担をしていただこう」ということで、みなさんの負担をかけないような、1コイン、500円カンパということをしました。



若手の方は当選された後、すごく大変ですよね。齋藤議員は全国若手市議会議員の会、議員ネット30などの若手議員の会を創設されましたが、そういった現状を変えるために作られたのですか?


若いっていうのには、二つあると思うんだ。
人間的な未熟さと、議員としての未熟さ。どうしても人生経験が乏しいので、自らが議員である前に人間として成長していくことも求められる人間的未熟さ。
しかし、当然周囲から見れば議員として、そういったもの以上のものを求められているから、二重に大きな宿題を課せられているという意味では、勉強も経験もしていかなければならないと思っています。そういったところは若い議員同士、お互いに教えあうというか、協力しあうことも大切ですよね。そして絶対選挙で競合しませんから、何でも聞けますよ。なかなか先輩には聞けないことも聞けるし(笑)。
それからもう一つは、これから立候補する若い人たちの相談相手になりたいなと。私たちの頃はそういうことができなかった。初めて立候補するときに、何ができるのか、何ができないのか、どうしたいのか、全く分からない状況だったんだ。
そういう人の相談相手にもなって、自分たちの次の世代を育てていきたいという気持ちからそういう会を作りましたね。



齋藤議員は福祉、その中でも特に障害者福祉に重点を置かれていますが、障害者福祉をよくしていくために、これからどうされていこうと思われていますか?


社会全体で、障害を持っている皆さんをどう支えていって、同じ地域で生活できるようにするのかということが大事になってきますよね。
それには施設を作るといったハードのメニューだけでなく、在宅で生活をする障害の皆さんを助けるようなソフトのメニューも作っていかないといけない。今ある制度を倉敷市に導入するとか、ないものを新しく作っていくとか、そういったものを組み合わせていくことで地域で生活できる社会基盤を作っていかないといけない、というのが一番の課題だろうと思うんです。
こういう社会情勢だから、何でもかんでも市役所がやるというのでは長続きしないですよね。私はできるだけ障害者の皆さんにもうすこし頑張っていただいて、民間の皆さんにも頑張っていただきたいと思います。民間の力で、市が委託するとかいった形でおこない、場合によっては障害者の皆さん自身がサービスを提供する側になることが、よりきめ細かい、かゆいとこに手が届く、本当に必要なサービスが必要な人にできるようになるだろうと思っているので、そのためには関係者の皆さんにもうひと踏ん張り頑張ってもらいたいと思っています。 今まではサービスを受ける側だけ、受けるだけの人たちがサービスを提供する側になれれば、安価で良質なサービスが提供できるのではないかな。



齋藤議員にとって議員の仕事って何ですか?


我々の仕事は市民を幸せにすることですよ、一番は。もっと言うと1人でも多くの市民の皆さんを幸せにすること。



では、そのために具体的にどんな活動をされているのですか?


基本的には、私たちは市民の皆さんから色んな相談や陳情をいただいて、それを解決するのがまさに市民生活につながっていくんですよ。
議員に相談できない市民の皆さんのほうが圧倒的に多い。しかし私たちは、相談をいただいた皆さんが困っているということは何倍も何十倍も何百倍も同じことで困っている人がいるんだろうというふうに捉え、それをきっかけにして、制度を変える条例、制度を変えていくことで声なき声に応えていく、ということが求められているんです。



齋藤議員にとって「ジャパンプロデューサー」とは何ですか?


当たり前のことが当たり前のようにできる、そんな社会を作っていくことが目標ですね。おかしいなと思ったことがおかしいと言える社会。
たとえば先日、「危ない危ないと指摘をされていたのに、事故が起こらないと改善されない。5日で直ることが何年たっても変えてもらえない」というような報道があったけれども、それではだめで、当たり前のことが当たり前のようにできるようになる地域社会を作っていくことが我々の目標です。



それでは、これから地域社会を担っていく若者に求められるものとはどんなことですか?


チャレンジ精神を持ってほしい。チャレンジ精神ってのは社会に対するチャレンジ精神かな。
個人のことは皆さんすごい頑張っていると思うしできると思う。それ以外に、社会全体に目を向けて何か行動を起こしてほしい、という意味でのチャレンジ精神。
自分がよくなったり、幸せになったりすることは誰でも考えると思う。それが、友達、知り合い、親、近所、とだんだん社会に目を向けるようになっていくといいですね。
それと人生は一度しかない、どうやっても一度だからそういう意味でも色々とチャレンジをしてほしいと思います。



インタビュー後記


今回のインタビューで、「よりよい市政にするためには、行政の力だけでは足りない。」という齋藤議員の想いを聞くことができました。
県の職員を退職され29歳という若さで議員を志された想いに変わりはない、むしろ強くなっていると感じました。



(インタビュー:2003-03)


1963.5.26 岡山県倉敷市に生まれる。
1979.3 倉敷市立南中学校卒業。
1982 岡山県立倉敷南高等学校卒業。
1986 香川大学経済学部経営学科卒業、岡山県庁に入庁。(商工・農林・地域振興部)
1989 まちづくり市民グループ「SEA」を結成。(会長に就任)
1992 岡山県庁を退職。
1993.1 倉敷市議会議員選挙で初当選/福祉などの委員会にて活動。
1997.1 倉敷市議会議員選挙で2期目の当選
2001.1 倉敷市議会議員選挙で3期目の当選
2005.1 倉敷市議会議員選挙で4期目の当選
※プロフィールはインタビュー時のものです。

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