ジャパンプロデューサーインタビュー

Vol.029 [国会議員] 江田 五月 参議院議員 「僕らのときは人生を賭けて何かやる、燃えるものがあった」

参議院議員

民主党 江田 五月
政党 民主党
選挙区 岡山県
初当選年 1977年
当選回数 7回(衆議院選4回、参議院選3回)
公式サイト
YAHOO!みんなの政治

 

よろしくお願いします。先生のお父様も政治家でいらっしゃいましたが、小さい頃から政治というものを身近に感じておられたのでしょうか?


そうですね。政治の話題はしょっちゅう身近にありました。
政治が身近というのは、父が県会議員や参議院議員やっていたということもあるけども、我が家では母もしょっちゅういろんな人を集めて政治の勉強会をしていました。
また政治だけじゃなくて、レコード鑑賞会やお料理の会など色々な文化活動みたいなこともやっていました。
日本がちょうど警察予備隊が出来、保安隊になり自衛隊になるという、今の自衛隊がだんだんできてくる時代です。戦闘機一機買うのをやめたら、例えば家がいくら建つとか、そういう話がしょっちゅう周りにあったから、やっぱり政治のことは非常に身近でしたね。
そんな中で僕の父は、はじめ参議院議員でのちに衆議院議員になりますが、ずっと社会党の、しかも本部の役員で書記長なども勤めたので、自分の身近にある政治というのは、どうしたって社会党政治でした。ということは自民党批判です。もう当時から自民党のみなさんのいろんな汚職事件、政治を利用して金儲けをする事件がごろごろしていました。
未だに終わらないのは本当にひどい話だけど、当時からそういうことばっかりありました。
だから世の中には政治を利用して金儲けをする悪い政治家がいっぱいいるという感じでした。しかしわが家はもう本当に貧乏で国会議員の歳費も全部政治につぎ込んで、なかなか家計にちゃんと入れないような父でしたから母は質屋へ通ったりしていました。
なので政治は全部汚いとか、逆に全部きれいとかいうのではなく、政治には汚いのときれいなのと、悪いのといいのと両方あるという感じで見ていました。



高校の頃からいろんなことをなさっていたようですが、学生時代はどのようにすごされていましたか?


高校の頃はクラブ活動と生徒会活動が忙しくて勉強をする時間がなかったんです。
高校3年の正月が明けるまで生徒会活動なんかやっていて大学受験の勉強を始めたのはその後です。
たまたま運良く現役で大学に入って、入った年がちょうど1960年。いわゆる60年安保っていう年で、入学式の日から自治会の皆さんがキャンパスのなかでわーわーマイクで演説してるし、クラスの討論もあるし、デモもあるし、そんなときだったから、すぐその中に飛び込んでいました。
それから自治委員の選挙に、わけもわからずに手を上げて、選挙で当選して、それからずっと自治委員をやりながら学生運動にだんだん深く入っていきました。
大学2年の秋に教養学部自治会の自治委員長に当選して、いろんな政治的なことに関わっていました。特にその当時、大学管理法問題というのがありました。
今は国立大学独立行政法人化が大騒動ですけども、当時は学生運動が盛んなのでこれに対抗するため、大学の管理体制をもっとしっかりさせて、文部省がその上に立ってがっちり大学を押さえ込もうというのですね。
教授会とか、学長や学部長とか、そういうものを文部省側でコントロールできるようにしようというのです。これは大学の自治に反するというので、ストライキをやって退学処分になりました。



学生運動はどんなことをされたのですか?


いろいろですよ。 学生運動はクラブ活動と違い、学生が自治会活動によって自分たちの社会的な問題意識に基づいて社会に対して発言していくものです。学生の自治組織がいくつかあって、学生の文化系や体育系のクラブ活動を総括しているのが学友会。そのほかに自治会というのがあったのです。
自治会は何をするかというと・・・何だろうね、よくわからないけど(笑)。
例えば秋に駒場祭というのがあって、その中で自治会が討論会を主催するとか、そういうことをやったりしました。自治会が学生の政治組織になっていたんですね。
学部全体で自治委員長を選挙し、各クラスで自治委員や代議員を選挙して、その皆さんが自治会の活動方針を審議し決定して、その方針にしたがって活動する。
その活動方針は極めて政治的意味合いの強いもので、その時々の政治テーマを一生懸命追いかけてました。核実験があれば「核実験反対」と言ってアメリカ大使館前に抗議に行ったり、九州で炭鉱のストライキがあったら、その応援に行ったり、いろんなことをやっていました。



思い出深い活動はありましたか?


やっぱり安保闘争は大学入ってすぐだから大変だったですね。
今日もある人と話したのですが、ジグザグデモなんかの経験を持ってる人が世の中からいなくなっていいんだろうかとね。
ジグザグデモでわっしょいわっしょいやって道路が完全に埋まって、そうすると「諸君の行動は東京都条例に違反しているので直ちにやめなさい。そこで指揮をしている江田五月君、君のやっていることは都条例違反です。すぐにそういうことはやめて、みんなを解散させなさい。」なんて警察が警告です。僕らは従いません。
それから、みんなで腕を横につないで銀座通りを全部埋め尽くして行進をするのがフランスデモ。「なんでそんなことするの」、「安保反対です」ってね。
学部でストライキやるとね、本郷の正門を入って目の前の広場が全部完全に人で埋まるぐらい、だいたい2500人ぐらいデモに参加するんですよ。ものすごい数でしたね。
僕は2度逮捕されててね、2度目は大学管理法反対運動で逮捕されました。ただこれはおかしな逮捕でね。逮捕されたその夜中にもう帰ってよろしいって釈放されてね。本当は逮捕自体がおかしかったんだろうね。
1度目は、これは本当に逮捕されたんですよ。アメリカが核実験をやるので、けしからんって言ってアメリカ大使館に行ったときだったかな。それとも日本のミサイル配備反対だったかな。
ところが、しょぼいデモになっちゃって。
駒場から多いときは2500人くらい集まるんだけど、そのときは50人ぐらいしか集まらなくて、こんなにしょぼいことじゃしょうがない。どうするって言ってたら、じゃぁ自民党本部に抗議に行こうと、全部で学生が300人ぐらいいたのかな、「自民党総裁に会いたい」とかって言ったら、「こちらへどうぞ」とか言われて案内されて、ある部屋に全員通されて、外から「カチャ」って鍵かけられて全員逮捕。
住居侵入だというのだけれど、政党本部だから国民が入ってもいいだろう、しかも「こちらへどうぞ」と言われたんだから、いいじゃないかと思うんだけど。
逮捕されましたが、起訴はされなかったんです。
そのときに面白い話があります。何しろ社会党は野党第一党で、そのナンバー2である書記長の息子ですから、検察官としては起訴すべきかどうかものすごく迷ったらしいのです。
その事件の被疑者の中では、検察官が重要度でランク付けをすると、僕は上から4番目ぐらいで、一番の責任者じゃなかったんです。
起訴は3番目までか4番目までか、ぎりぎりのところで検察官が父親が謝まりにくれば起訴しないと、それでなければ起訴すると思ったみたいです。
そうすると僕の父は、そんなもの行けるかって。自分の息子が信念持ってやったことを親が謝るなんていけないと言って検察官の所へ行かなかったんだ。
それで検察官も困ってね、その結果、処分保留で釈放してその後に不起訴になったんです。
そんなことがありました。息子としては、親に謝ってもらうよりずっとこたえましたね。



先生は初め司法の方にいかれましたが、その方面に進むきっかけなどはあったのですか?


学になって再入学して、学校に戻ってからのことです。学生運動をいつまでもやっている人もいるんだけど、僕はやめた。
学生運動って学生がやるから学生運動であって、学生運動のプロみたいになる人もいたけれど、それはちょっとおかしいんじゃないかと思って。
というので学生運動で処分までいったんだから、これでおしまいって。あとはちょっと勉強しよう。
そこで教養学部から専門の方に進学するときに、退学になる前は経済学部と思ったんだけどいろいろ考えるところがあって法学部に進学しました。
その政治コースっていうところにいったら、丸山眞男という大先生がいまして、そのゼミに入ったんです。その大先生が「君らは法学部を卒業するのだから、法律のこと何も知らないんじゃまずい」と言うのです。リーガル・マインドっていうのは大切で、政治の勉強は卒業してもやれるけど、法律の勉強は卒業するとやらないだろうから、大学にいる間ぐらいにやりなさいとね。
それもそうだなぁっ、法律の勉強をしようって。
で、法律の勉強なんておもしろくないのに何か目標がなきゃできないから、じゃぁ司法試験を目標にしたら、それこそ今のマニフェストじゃないけどちゃんと勉強できたかどうか検証できるから、じゃあまあ司法試験やろうと。そしたら通っちゃって(笑)。
そのときは、2年間だけは勉強しようと思って本気で勉強した。そこで勉強しないと生涯もう勉強するときがないから最後だからちゃんとしとかなきゃ。
小学校でも中学校でも高校でも全然しなかったんです。大学入っても全然しないままで、そこまできちゃったから最後はちゃんとしようと。その後2年は大学と家と図書館の間を動くだけ。それくらいしか動いていなかったですね。司法試験の勉強っていうのは特別にはしなかったんですが、授業を聞いてノートをきちっととって勉強は一応ちゃんとしたんですよ。単答式だけは特別の勉強をしましたけれど。
司法試験に合格してどうしようかなと考えました。
それ以前から普通の会社に就職なんていやだし、官僚になるつもりはなかったから公務員試験は受けてなかったし大学に残ろうかなと思っていました。学問でこれから勉強していく課題があるとすれば、行政法の分野かなと。行政法って非常に古い法律学だったのです。
今でもまだ当時とは本質的な変化はなく古いままで残っています。
これをずたずたにして新しい行政法体系を作るっていうことは、面白そうだなって。だから大学に残って学者になろうかなぁと思っていたら司法試験に受かった。
受かって振るっていうのも、なかなかおつな味でいいなぁっとも思ったけれど、人生あまり面白いばかりでもいかんなぁっと思いせっかく受かったのだから、そこで身につく資格を取っておくのもいいなぁって思って司法研修所に入ったんですね。
それで弁護士になるのが普通のコースでずっと修習をやってたんだけど、どうも弁護士もいい加減なもんだなぁと思いだした。
自由業だと言うけど、ほんとに弁護士さんって自由ですかと問うと、お客さん相手の仕事だからお客からお金もらえなかったら弁護士は食っていけない。自由って言うけど全然自由じゃないんじゃないかなぁって。そもそも自由って一体なんだろうかなぁって。マルクスは自由は必然性の認識だと言ってるんですよ。そこで一番不自由なところに入って、その不自由さをどれだけ認識できるか、その不自由さを自分で操るという訓練も、面白いかなぁって。これらは全部、後でくっつけた理屈だけど(笑)。
それで裁判官やってみようかなって思い修習が終わるときの志望調査に「裁判官」と書いて、教官がいろいろ根回ししてくれて裁判官になっちゃった。
でも、裁判官を長くやるつもりはなかったですね。ある程度、拘束の中での人生を経験してみたらそれでまぁいいんじゃないかなと思っていました。
ところが1年も経たないうちに、外国へ行かないかと言われたんです。しかし外国に留学させてもらったら、生涯裁判所から離れられなくなるだろう。それはたまらんなぁっていうのでお断りしたんです。
そのとき後にも先にもそのときだけなんだけれど、父に相談した。
いいアドバイスくれて「そんなに堅く考えることない。夏目漱石は、文部省の奨学金でロンドンに留学したんだ。帰ってきて、文部省辞めて作家になった。今では誰もそんなこと怒ってない。国民の税金でロンドンまで行って、帰ってきて文部省辞めて作家になって夏目漱石は税金泥棒でけしからんなんて、誰も言っていない。」それもそうだなって思って国民の税金でオックスフォードに2年行かせてもらいました。
帰ってきて、留学させてもらったから、ずっと裁判所にいなきゃいかんなんどという義理堅いことを思っていたわけじゃないんだけれど、もうしばらく裁判官を続けようと思っていたら、何とだんだん裁判官が面白くなってきたんです。
そろそろ裁判官で10年経つのだから、ずっと裁判官をやろうかと思っていたんですよ。
ちょうどそのとき、父が社会党を飛び出したのです。
社会党は頭でっかちだし、労働組合ばっかりだし、市民の気持ちとかけ離れて、だんだんと夢のような革命理論ばっかり言うようになって、こんな社会党じゃダメだってね。
そして父は自分の考える革新政治の道がいいのか、社会党執行部の考る道がいいのかを国民のみなさんに聞いてみよう、そのために参議院の全国区に出ようと決断した。ところがそれから2ヶ月足らずで死んじゃったんです。
父は戦前は刑務所へ入ったりしながら政治運動をずっとやってきて、戦後も極貧で質屋通いをしながら政治をやってきました。
それで最後に、長い生涯をかけた政治家人生のすべてを賭けて、新しい道を求めたのです。新しい道に、チップの全てを賭けたんだけれど、トランプの札を裏返すまでにいかないうちに死んじゃった。
その亡くなったのが、実は僕自身の誕生日。
これは大変だ。自分の誕生日に父親が亡くなるというのは、やっぱりその後を託されたなぁって思いがあります。普通の託し方ならいいんだけども、大博打をうって、後は頼むっていうわけだからカードを裏返すのは僕がやらないとしょうがないや。



もし、もしですよ、先生のお父様が亡くなられたのが先生のお誕生日でなければ政治家へならなかったのでしょうか。


あとを継いでないでしょうねぇ。



では、お誕生日にお父様がお亡くなりになったというのが政治に身を投じるきっかけになったのでしょうか?


そうですね。それまでは父が病気だというのは5月のはじめに分かって、連休のときに病院に行って、ヤバイって入院しました。
それからしばらくたって、みんなにお前があとを継げとずいぶん言われました。だけど「嫌だ」と言ってずっと断り続けていました。
父がやっていることは大切だとよく分かっていました。でもそれは父親のことです。誰かがその後を継ぐんだったら、いっぱい継ぐ人はいるじゃないか、あなた方が継いだらいいじゃないですか、と言って断り続けてたんです。しかし、やっぱり誕生日に親に死なれるというのは後を託されたという感じがしました。
裁判って人間の営みだから、温かい血が流れてない人間に裁判なんてできるわけがない。最近の裁判官は、人間だかどうかわわからんのがいっぱいいるけども、やっぱりそれではいけません。
裁判というのは、裁判官が自分の人生を賭けて判断をするわけでね。そういう人間の営みとしての裁判作用というのをやる人間っていうのは、やっぱり人間でなきゃできない。それが爬虫類みたいに冷たい青い血しか流れてなかったら、やっぱり裁判できない。裁判官を続けようとしたら、やっぱり自分は人間じゃなきゃいけない。人間だったら今この状態でどうするか。父親がああいう死にかたをして後は頼むって形になったら人間ならどうするか。
切羽詰って、「裁判官辞めるっ」。他の選択肢はありません。「政治をやるっ」。
瞬間、決断したんですね。



ホームページに「裁判官をやればやるほど好きになったから私に向いた仕事だと思った。政治もやればやるほど好きになって自分に向いた仕事だと書けそうな気がしている。」とありますが。


ずっと昔にそう書きました。
政治家になって1年目ぐらいに書いた本のあとがきに書いたことで、それから20何年経ってるから、向いたも向かないもない。もうこれしかない。今更違う道に行こうたって。
選挙に落ちれば弁護士の仕事ぐらいするけども、今から弁護士やったって世界に冠たる弁護士になれるわけじゃないし、細々弁護士をやりながら飯ぐらい食えるだろうけども、政治家としてきっちり人生をまっとうしたいと思いますね。



今の若者に向けて何かメッセージをお願いします。


今の若いみなさんの感じが、僕はよくわからないんですけどね。
僕らのときは、とにかく何かに没頭してたんですね。人生を賭けて何かをやる。燃えるものがあってこれはやらなきゃという。それがあるときは怒りであったり、何でもいいんですよ。勉強でもいいし、政治でもいいし、恋愛でもいいし、文学でもいいし、何でもいいんだけど、自分の生き様を賭けて何かをやる。そういうのがないと、社会というのが良くなっていかない。社会全体が温かくなってこない。
なんとなく冷え冷えとした自分は社会のよそ者のような、自分の居場所じゃないという感じをもちながら、ちょっと今の仮の時間を過ごす。
モラトリアム人間なんていう言葉がありましたが、そのうち自分が何だか分かってくるだろうから、それまでちょっとゆっくり見てよう、って感じでずっときてるんじゃないかなと思います。



大学時代に何か見つけようとする人もいると思いますが、なかなか見つけられない人もいると思いますが。


見つけようと思ってきょろきょろしても、見つからないから、どーんと入っていく。飛び込んでいくと、どんなところでも何かあるから。
若いうちは失敗したっていい、やり直しがきくんだから。
もう僕がやり直すったって、やり直しきかないけれど、きみらはそうではない。そんなつもりで思い切っていろんなことに自分の人生を賭けるようなことを、ぜひやって欲しいと思います。



(インタビュー:2003-08)


1941.5.22 岡山県岡山市長岡に生まれる。
1960.3 岡山県立岡山朝日高等学校卒業。
1966.3 東京大学法学部第3類(政治コース)卒業。
1968.4 東京地裁判事補(以後1977年まで千葉家裁、横浜地裁判事補を歴任。)
1971.6 英国オックスフォード大学法学部法律証書科修了。
1977.5 社会市民連合代表。1977.7参議院議員当選(全国区)。
1978.3 社会民主連合副代表。
1983.12 衆議院議員当選(岡山県第1区)。
1985.2 社会民主連合代表。
1986.7 衆議院議員再選。
1990.1 衆議院議員にて3度目の当選。
1992.11 政策研究会「シリウス」代表幹事。
1993.4 衆議院議員にて4度の当選。
1993.8 細川内閣で、国務大臣・科学技術庁長官。
1994.5 日本新党との合併により社会民主連合解散。
1994.6 日本新党副代表。
1994.12 新進党結党に参画、広報企画委員長となる。
1995.12 新進党トゥモローキャビネット労働・雇用政策大臣。
1996.7 新進党を離党し、岡山県知事選挙に立候補表明。
1996.10 知事選で、43万6千票を獲得するも5700票差で惜敗。
1996.12 弁護士事務所を開設するとともに政治活動を再開。
1997.10 参議院(岡山県選挙区)に立候補表明。
1998.3 新「民主党」へ参加表明。
1998.7 参議院議員2度目のの当選。
1999.10 民主党司法ネクスト大臣。(2000年9月まで)
2000.9 民主党NPO委員長。(2001年9月まで)
2001.9 民主党NC法務大臣。(2002年9月まで)
2002.10 参議院国家基本政策委員長。(2003年11月まで)
2003.12 民主党副代表。
2004.7 参議院議員3度目の当選。参議院「民主党・新緑風会」議員会長
2006.9 参議院懲罰委員長。2007.8参議院議長。
※プロフィールはインタビュー時のものです。

関連記事
  • Vol.238[首長] 宮本一孝 大阪府門真市長 「相手のことも自分事のようにとらえ、支え合うまちを目指して」

    ジャパンプロデューサーインタビュー

  • 濱田市長プロフィール用
    Vol.237 [首長] 濱田 剛史 大阪府高槻市長 「未来志向で、次世代に品格ある高槻を!」

    ジャパンプロデューサーインタビュー

  • 品川市長プロフィール用
    Vol.236 [首長] 品川 萬里 福島県郡山市長 「誰一人取り残されないまちを実現するために」

    ジャパンプロデューサーインタビュー