ジャパンプロデューサーインタビュー

Vol.124 [首長] 平井 竜一 逗子市長 「勇気を持って、一歩踏み出せ!」

市長

逗子市長 平井 竜一
所属 逗子市長
選挙区 神奈川県逗子市
公式ホームページ

 

政治に興味をもったきっかけを教えて下さい。


私は早稲田大学に通っていたのですが、21歳の頃にはすでに将来、逗子市長になろうと思っていました。そのきっかけは、当時、逗子市を二分する大問題となっていた池子米軍家族住宅建設の是非を巡る運動に関わったことです。

その問題が市長のリコール運動に発展した昭和59年当時、私は高校生でした。その後、市長と議会に対するリコール署名が度々行われるなど、逗子が「民主主義の実験場」と呼ばれる中、自分も逗子のために何か関わらなければならないとの思いを抱きました。

実際に行動を起こした21歳の頃はまさに建設反対派の市長が、県知事の建設受入れ調停案を争点に辞職し、民意を問う選挙に打って出た時でした。そこで、若者の思いを政治家にぶつける機会を作ろうと、選挙の前に若者100人と市長選候補者を集めてパーティーを企画したのです。今でこそ頻繁に行われている公開討論会ですが、当時としては画期的な取り組みだったと思います。その経験を通して、将来、市長として逗子のまちづくりに携わる決意をしました。

また、大学時代は探検部で、インドやネパールなどをほとんどお金も持たずに旅行していました。文明発祥の地であり、カースト制など日本と全く違う世界を見たいという好奇心だけで、かなり無鉄砲な行動(ホテルが見つからず駅のベンチで寝たこともありました)もたくさんしていました。



卒業後は民間の企業に就職されたとお聞きしました。


当時はバブル経済の絶頂で内定は両手に余るくらいありましたが、ベンチャー企業の先駆けといえるような企業の社長に惚れ込み、その人のもとで修行したいと飛び込みました。そこで約8年半、社長秘書として経営管理や人事管理などトップ・マネジメントを学びました。休みも夜もない厳しい生活でしたが、歯を食いしばってやり遂げたからこそ、今の自分があると思います。
30歳を機に仕事を辞めて逗子に戻り、市議会議員選挙の半年前から準備を始めました。当時は今と違って、地盤・看板・カバン(資金)のない中で若手が議員になるという土壌はありませんでしたが、徒手空拳でがむしゃらに選挙を戦った結果、なんとトップ当選することができました。



市議会議員時代、印象深いできごとはありますか?


市議会議員になってまず取り組んだのは議会改革でした。現在県議の近藤大輔氏と2人で会派を組み、おかしいと思ったことはおかしい!と積極的に発言していったのですが、そのうちの1つとして記憶に強く残っているエピソードがあります。当時、逗子市議会の議長は水面下で候補者を決めていたため、新人の自分たちには「誰に投票すべきかわかるはずもないだろう?」と大きな違和感がありました。
そこで、議長候補者は所信表明演説をするべきだと提案したところ、所信表明をするかどうかで議員が真っ二つとなり、議長が決まらずに議会が流会してしまったのです。最終的には所信表明演説が行われ、選挙で議長が決まりました。当時のベテラン議員は「うるさい若いのがやってきたな」と思ったでしょうね。



市長に出馬されたころのお話をお聞かせください。


市長戦に出馬したのは2006年でした。現職の市長は出馬せず、私と対抗馬の候補者はともに40歳の新人で、争点となったのはやはり池子米軍家族住宅の追加建設問題でした。
対抗馬の候補者が建設容認派、私が反対派という立場で選挙を戦い、結果勝つことができました。しかし、勝ったと同時にとても重い責任を背負った心境でした。

23年間で市長が5人変わり、解決していないのですから、池子問題が逗子にとって最も重い課題であり続けていることがわかると思います。米軍家族住宅はないのが一番だと言うのは簡単ですが、実際に現実と向き合い、解決に導くのは大変難しいことです。逗子市では池子問題を巡って歴代市長が4人辞職しています。私もその覚悟をもっていました。



そのような難しい局面で市長に就任されてプレッシャーはありませんでしたか?


市長になった以上、泥をかぶってでも何としても解決するという強い気持ちがありました。その決意のもと、市民との話し合いを何度となく重ね、防衛省や米軍司令官と直接交渉し、国会議員を訪ねました。

4年間の交渉の結果、私の1期目で池子問題に解決の道筋を見出すことができました。その内容は、住宅追加建設計画が進む中、池子の敷地内に市民のために40haの自然公園を造るというものです。しかし、すんなりとはいきませんでした。発表した当初、建設反対派の住民からは公約違反と言われたのです。私は逗子市長の宿命として、選挙という洗礼をうける必要があると考えていました。
2期目の選挙がまさに信を問うものになりました。対抗馬の一人は建設反対派でした。結果はかなりの票差で再選を果たし、それまでやってきた粘り強い交渉が多くの市民に認められたことをとても嬉しく思い、大きな達成感を感じたことを覚えています。

この選挙をもって池子問題に一区切りがついたわけですが、とても感慨深いものがあります。私が高校生の時に勃発し、政治に関わるきっかけとなった池子問題を、30年後に市長として解決に導くことができたのは本当に運命としか思えないですね。



逗子市で池子問題以外に優先して取り組んでいる政策はどのようなものがありますか?


逗子市は高齢化率が神奈川県下で2番目に高い市です。その中で私は教育と子育て支援を重点的に進めています。というのも逗子市の市税の98%は住民税など市民からいただいている税金で、文字通り、人が逗子市の資源だからです。
教育については、全学校に少人数指導教員を配置したり、エアコンを設置したり、ソフト・ハード両面でどの市よりも投資しています。子育て支援でも、学童保育の全校設置や子育て相談の充実など、逗子でもっと子どもを育てやすい環境をつくり、育った子どもがまた逗子で子育てを行うというように、地域に根付いた人材を育てたいと思っています。逗子には豊かな自然があります。その中で子どもを育てたいという人がどんどん増えたらいいと思います。



若者にメッセージをお願いします。


まず、「一歩踏み出せ!」ということ。私が学生時代に池子問題に関わっていなかったら、今の自分はないと思います。あの時、一歩を踏み出したことで、人生が大きく動き出しました。人生、いつ、どんなきっかけがあるかわかりません。その瞬間を逃さずに、勇気を持って挑戦することが大切です。

そして、政治の現場は若い人達が思っている以上に開かれていて、また楽しいところです。逗子市でも運動公園再整備計画策定で中高生委員会を作ったり、3月に行われる子どもフェスティバルに大学生がボランティアで参加したり、参加の方法は様々あります。そのチャンスを活かすのは自分次第なのです。

私自身も大学時代にオトナに混じって逗子市環境管理計画策定委員会に入り、市役所に通っていました。一見すると若者からは政治が遠く手の届かないものに見えるかもしれません。しかし、私自身も若い方と一緒に取り組むのが楽しいですし、勇気を持って飛び込めば、必ずや多くの人との出会いと貴重な経験が得られるはずです。
だから最後に、Join us!! Welcome!! とお伝えしたいです!



(インタビュー:2013-02-21)


1966年(昭和41年)4月生
1979年  逗子小学校卒(サッカー部)
1982年  久木中学校卒(陸上部)
1985年  県立横須賀高校37期卒(陸上部)
1989年  早稲田大学社会科学部卒(探検部)
1989年  (株)アスクプランニングセンター入社(ヨット部)
社長秘書・経営企画室
1998年より逗子市議会議員三期連続当選
2006年より逗子市長就任
※プロフィールはインタビュー時のものです。

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