ジャパンプロデューサーインタビュー

Vol.133 [首長] 出口 清 袖ケ浦市長 「物怖じせず、いろんなことにチャレンジしてください」

市長

袖ケ浦市長 出口 清
所属 袖ケ浦市長
選挙区 千葉県袖ケ浦市

 

市長になろうと思われたきっかけを教えてください


もともと私は袖ケ浦市で生まれ育った人間でした。私の青春時代というのは、いわゆる世の中が成長してゆく少し前の時代だったのですが、就職して働いて行くなかで、土曜日・日曜日が休日でない、あるいは三交代勤務など過酷な環境での労働条件の中で、自分の今いる環境に疑問をいだくようになり、この環境を改善していくために何か行動しなくてはと思い、組合運動に参加するようになりました。その運動に参加するなかで、地域の様々な活動に参加する機会が増え、だんだんと地域に対してもやりたいことや、改善したいことが増えて来ました。
そうすると今度はその「やりたいこと」を実現するにはどうしたら良いのかということを考え、最初は市議会議員という選択肢を選びました。
議員の時は、①政策実現②住民の声の反映③行政の疑義のチェックという3つのことを考えて活動していたのですが、4期務める中で、議員という立場でできる政策実現に限界を感じてきていました。また、議員を務める中で新たに感じた行政と市民との関わり方など、いずれも「首長」にならなければ解決できないと思うようになり、市長選挙に出馬をしました。



市長として苦労されたことを教えて下さい


最初の首長選挙は7人が乱立する大混戦でした。様々な方々のご支援もあり、なんとか当選させていただくことができたのですが、それだけ候補者が多いと他の候補者を応援していた市議会議員の方も多く、当初は議会と折り合いがつかないことが多々ありました。
特に教育長や監査委員などの任命は否決されてしまったのはとても大きかったです。
否決された時は12月議会だったのですが、その後賛成をしてもらうために3月議会まで、もうほとんど、夜討ち朝駆け状態で全ての市議さん
元へ行き様々に説得をしました。市長になった前半はほとんど毎日このような感じでした。
今思えば私自身のやり方にも問題があったのかもしれませんが、当時はどうしたらみなさんに自分の考えを理解してもらえるかを必死に考え行動していました。



市長として普段大事にされている考え方はなんですか。


やはりなによりも、政策実現が第一だと考えています。
1期目のとき、当時としては珍しくマニフェスト選挙を導入しました。38項目もあげていたので、すこし多すぎたかなとも思いましたが、それでも7割方は一期目のうちに達成出来ました。
市民に対してマニフェストで約束をし、その達成度で市民から評価される。私の議員時代からの姿勢ですが、マニフェストというのはそれをよりわかりやすい形で表明するとても有効な手段だと考えています。
また私は、市政を運営していくなかで常に市民との対話を念頭に置いています。
特に面白い試みとして、普段わかりにくい予算を市民の皆様に理解していただき意見をいただけるように、市長自身が市民へ予算概要を直にパワーポイントを用いて説明する予算説明会を行ったりもしています。



市長としてのやりがい


やはり政策が一つずつ実現していくこと、実現に向かってプロセスが一つずつ進んでいくこと、これがやはりやりがいです。
また、もちろん実現したことが住民に喜ばれることはとても嬉しいのですが、実際のところ、市民の方々からほめられることはほとんどありません。だからこそ、たまにほめられると本当にとても嬉しいし、やっていて良かったなと感じます。



市おすすめスポットについて教えて下さい


海辺にある袖ケ浦海浜公園はほとんどが人口海浜なのですが、アクアラインのすぐ近くにあることもあり夕暮れ時には、海ほたるやランドマークタワー・東京スカイツリーそして富士山までもが一望できる絶景スポットになります。
内陸にいくと袖ケ浦公園という公園があり「水と緑と花」をテーマに公園づくりをしています。特に5月から6月頃に咲き誇る花菖蒲やあじさいの風景は圧巻そのものです。
その他民間施設ですと、東京ドイツ村のイルミネーションが関東の三大イルミネーションに選ばれるほど有名です。私はたまたまその近くに住んでいるのですが、イルミネーションの時期はドイツ村への道が大渋滞してしまい、皆さん結局近くに車を停めて歩いて見に行かれていますね(笑)
また、ユニークなものとしてホワイトガウラーメンというものがあります。これは最近話題のB級グルメというやつなのですが、袖ケ浦市は酪農が盛んなのでそれにちなんで作ったメニューです。



市長の学生時代について教えて下さい


一言でいうと灰色の学生時代でした(笑)
昭和37年に中学を卒業したのですが、当時は長男だったのでなんとか身を立てなければいけないと思っており、卒業後すぐ手に仕事のつく東京電力の企業内学校に進みました。その学校は全寮制で場所が現在の東京都調布市だったのですが、当時としては東京のまん中は、この袖ケ浦からはとても遠い。交通手段が蒸気機関車だったこともあり一大決心でした。
そうやって出てきたのにもかかわらず、3年後に就職できることがわかりきっているからなかなか意欲がわかない。しかも技術系だったので恋愛などもなかなかできず、本当に寂しい高校生活でした。



以前の職業で体験された内容で今の仕事に活きている部分はありますか?


高校の卒業後は火力発電所に配属される予定でしたが景気の減退期にあたってしまい、火力発電所の建設が少しずつ遅くなる時代だったので、最初の一年は検針係として営業をしていました。
ところがこの仕事が先ほどお話していた、土日休みじゃない7の倍数の日が休みという変則的な仕事だったので、私自身本当にいろいろなことを考えました。
ただ同時にこの仕事は、私の就労経験の中でお客さんと接した初めての機会でしたので、お客さんを相手にするということはどういう事なのかという事を本当にキチンと学んだと思います。このことは、今でも市民の方々と対話する際に「知らないでは許されない。だから普段から勉強していく」という心構えにもつながっています。
また、私はスポーツが好きで中学時代からいろいろなスポーツをしていたのですが、企業にいるときにボート競技をやっていました。やっていた頃は火力発電所で働いていたので三交代制の勤務だったため、日によっては夜勤やって朝から昼まで練習して夕方寝てそしてまた夜勤みたいな日もありました。
体力的には相当にきつかったのですが、その甲斐あって国体に3回出場することができました。この経験は、今でも辛いことが有る度に思い出して、「あの時これだけ頑張れたのだから」と自分の励みになっています。



若者へのメッセージ


今はやり直しが出来る時代だと思っています。
私も他の学校にもう一度行き直したいとか、働く場所を変えたいとか、いろいろ考えたことは有ったのですけれども、結局なかなか踏み出せませんでした。当時はなにか一つでもやめると、背中に落伍者の烙印が押される時代だったからです。
でも今は違います。もしダメだったら再チャレンジができる時代。だから一度の失敗で落胆したりくよくよしたりしないでください。
必ずしもみんながサラリーマンになる必要も高給取りになる必要はないのです。
いろいろなことにチャレンジをして、最終的に自分に適していることはなんなのか見つけられるよう頑張ってください。



(インタビュー:2013-02-08)


昭和40年  3月  東電学園高等部卒業
昭和40年  4月  東京電力株式会社千葉支店入社
昭和52年10月  1日~昭和61年  9月30日  袖ケ浦町青少年相談員
昭和61年  4月~昭和62年 3月  袖ケ浦町立平岡小学校  PTA会長
平成  3年  3月  産能短期大学(通信制)  能率科卒業
平成  4年11月  3日~平成19年  9月10日  袖ケ浦市議会議員
平成  7年12月  1日~平成16年11月30日  袖ケ浦市民生委員・児童委員
平成11年  6月  1日~平成19年11月  8日  平岡地区社会福祉協議会会長
平成18年  5月  東京電力株式会社  (東火力事業所)定年退職
平成19年11月23日~袖ケ浦市長  (現在2期目)
※プロフィールはインタビュー時のものです。

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