ジャパンプロデューサーインタビュー

Vol.165 [首長] 板倉 正直 千葉県印西市長 「若者は夢に果敢にチャレンジして」

市長

千葉県印西市長 板倉 正直
選挙区 千葉県印西市

 

市長になられる前に議員でいらっしゃいましたが、まず議員になろうと思った理由をお聞かせください。


小さいころから勉強しろ勉強しろと言われて育ったせいか、勉強することが大嫌いでした。高校は卒業しましたが、大学へは進学せず、家業の農家をついで暮らしていました。ちょうどそのとき、千葉ニュータウン事業が始まりました。事業のための土地を確保するために、地元の住民たちに土地を売らせる議員たちを見て疑問を感じました。これからは印西でも農業をやっている時代ではない、そう思いました。しばらくして、県水事業が始まりました。その当時、水の需要が増大し水源を確保することが必要となったため、国によって水源から末端まで一貫した広域水道をつくる計画(審議会答申)が出されていました。取水場を印西に設置する条件のもと、県水の給水を印西に優先的にまわすという県からの約束がなされ、印西町議会はその計画を議会であっという間に通してしまいました。
しかしながら、ふたを開けてみると、その後実現が難しいとの見方から、計画は大幅に縮小され、町内の一部が計画の給水区域から除外されてしまいました。私は、今は小規模水道として個人の井戸を使用しているけれど、これから民間の開発が進んだ時のために県水の取水の確約をとっておかねばまずい、そう思って必死に動いていたのですが、訴えようにも、県に書面などで確約をとっていなかったため証拠がなく諦めざるを得ませんでした。

参考資料
Ⅲこれからの県内水道組織
http://www.pref.chiba.lg.jp/suisei/jouhoukoukai/shingikai/suidoukeiei/documents/shiryou2-3_1.pdf

また、同時期の昭和48年、現在の印西市役所の建設が計画されました。私は、せっかくだからニュータウン事業者から無償で事業用地をもらいうけて、建設も事業者にやらせればいいと思いましたが、結果として、現在の場所に建てられることになり、用地の取得に2億2千万、建設費に14億1千万という膨大な金額が支払われ、昭和51年、庁舎の完成に至りました。こうした市民の血税の使い方に大変な憤りを感じ、私は議員となることを決意しました。



長い間、議員を務められてきていかがでしたか?


市議会議員になって36年。私は「是々非々、いいことはいい。悪いことは悪い。」という態度で筋を通してきました。すると、市民から「板倉は言うべきことを言うやつだ」と評価をいただけるようになり、市の各地に支持者が散在するようになりました。組織票はその組織のトップの意向ですぐに変わってしまいますが、個人票はそうではありません。日々の積み重ねで、それぞれの地域に分かってくれる方が生まれてきたのです。



市長になろうと思った理由をお聞かせください。


どうにかしなくてはと思った理不尽な出来事が3つあったことが、決意の背景にあります。

1つは、平成22年に合併する際、体育館建設の案が持ち上がったことです。建設費は総額39億円、しかし建設予定地は印西の外れでした。そんな場所に作るのはよくない、そう主張したにもかかわらず、当時は建設に向け進んでおりました。私は議会討論でとんでもない話だと怒り、そのときの議会では否決になりました。しかし市議会改選後、構成メンバーがかわると情勢も逆転し、瞬く間に体育館建設の議案が議会を通ってしまったのです。

2つめに、印西には戦前から109年続いた、名門の県立印旛高校がありました。もともと、人口増加を見込んでニュータウンのなかに高校を3校新設するという予定でしたが、思っていたより人が集まらず、3校つくる約束が1校に変更されてしまいました。その上、新設校はつくれないため印旛高校を移転するというのです。歴史ある高校を簡単に移すことなどできません。私は市民からの請願を叶えるために、どんな経緯で印旛高校ができたか、教育者のやり方でどれだけ高校のレベルが上がるかを訴えるとともに、水も飲まずに議会で現在の地に存続させるべきだと討論を1時間行いました。それでも高校は移設されてしまったのです。

3つめは、印西には総合病院がありませんでしたが、千葉県の平成18年の病床配分で病床をもらえることになり、総合病院建設が現実のものとなるかのように思えました。ところがある日、医療整備基本構想ができていないため建設はできない、そう伝えられました。署名、発議、意見書提出などできるだけのことをしましたが、結局、平成18年の病床は断念することとなりました。その後平成20年の特別枠で病床がもらえることとなりましたが、計画が再始動してしばらくしてから調べてみると、総合病院ではなく、リハビリに特化した病院が計画されていたのです。私は有志により集められた6000人もの署名を県に届けるとともに、こんなものは総合病院ではないと訴えました。その後、資金も集まらず場所も決まらず、病院建設は空中分解してしまいました。

ただ、さまざまな不条理を目の当たりにしても、当初私は首長選に出馬することを躊躇していました。以前に一度、平成6年の首長選に出馬した際、母親に大変な心労を掛けてしまい、また、私の選挙責任者として支えてくれた父にも「もう首長選には出馬するんじゃない」と言われていたからです。しかし、仲間たちから何度も出馬を促され、気持ちは揺れ動いていました。そんなとき、ある方から年賀状が届きました。そこには「人生最大の不幸は病気でも貧困でもなく、誰からも必要とされないと感じながら生きること」そう書かれていました。この言葉で私は、「自分は必要とされているのだから頑張らねば」と気づき、出馬を決意しました。



市長としてやりたい事はなんですか


以前、駅に近い土地にクリーンセンター(ゴミ焼却場)を建てるという計画がありましたが、前々からおかしいと訴えてきました。高齢化社会が進むなか、駅から歩いて行ける範囲にはもっと生活に必要な施設があるべきだからです。市長になった今、その計画を中止し、商業施設を誘致することができました。これからも改革を続けていきます。



若者に期待することはなんですか


若者には大きな夢を持ってもらって、大いに、果敢にチャレンジしてもらいたいです。
世の中を見ると、不満があって脱線する若者もいるけれど、ちゃんとした考えや目標をもって努力してほしい、働く意欲を持ってほしい、そう思います。
政治や行政にももっと関心をもって、自分からどんどん動いていってください。



(インタビュー:2013-11-21)


生年月日:昭和21年8月5日
経歴:
昭和21年8月5日 印西町に生まれる
昭和40年3月   成田高等学校卒業
昭和50年4月   印西町議会議員に初当選
以後、印西市(町)議会議員として10期連続務める
その間、議長などの要職を歴任
平成24年7月   印西市長に初当選
趣味:クレー射撃 日本舞踊 自然散策 旧所名跡めぐり
モットー:市民目線 誠心誠意
(印西市HP “市長の部屋”より)
※プロフィールはインタビュー時のものです。

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