ジャパンプロデューサーインタビュー

Vol.182 [首長] 渋谷 金太郎 東京都清瀬市長 「身近なことに目をむければ、人生は充実する!」

市長

東京都清瀬市長 渋谷 金太郎
選挙区 東京都清瀬市

 

政治家になろうと思われたきっかけを教えてください。


平成7年1月の阪神淡路大震災の日に、テレビ報道を見て、大変なことになっていると茫然として見入っていた時のことです。傍にいたある人から、その年の4月が統一地方選挙の年だったため、選挙の話題を振られ、「市議会議員にでるそうだな。若い者は味方しても年寄りは味方しない」といわれたのです。そのころ、他の人達からは「選挙に出てほしい」といわれていましたが、まだ出ると決めていたわけではありませんでした。批判的に「味方しない」と長老的な立場の人から突然言われたため、つい感情的になって「村8分、怖くありません。自分が出ると決めたら出ます。ただし、今選挙に出ると決めているわけではありません」と応じました。
その後1週間考えて、何人かの人に相談もして決断したのですが、この場面がなければ、おそらく政治の世界には入らなかったでしょう。
当時、幼稚園の園長、スポーツクラブの創業社長、専門学校の講師、フジテレビの幼児教育番組の監修委員などを務めていました。モンスターペアレントとの出会いやストライキ騒動など波乱万丈の体験もしてきましたが、充実感、「夢」は子ども達との係わり、教育の中にあり、また自分の責任で作り出していく手応え感の中にありました。
そんな流れの中にある時に、普段は眠っている「向こう意気」に火をつけられてしまった「長老とのやり取り」が、まずは政治の世界に入った「きっかけ」です。



市長になろうと思われたきっかけを教えてください。


前々から前市長から後継者として指名されていたのですが、それを固辞していました。私は当時幼稚園の園長として、子ども達との純粋な世界で充実した仕事ができて満足しておりましたが、子どもがいらっしゃる方々は苦労しながら幼稚園に通わせているということを親しい友人から改めて指摘されました。そのとき、これまで自分の人生を過ごさせていただいたから、これからは公の立場で公の人生で恩返しをしなければいけないという気持ちになったのです。
そして周囲の方々そして家族の理解も得ることができ、出馬を表明しました。



学生時代のお話についてお聞かせください。


小学校5年生の時、元気だったにもかかわらず、心臓に異常にあることがわかり、医者から「20歳まで命が持ちません」と宣告されました。助かりたいという気持ちから、助けてほしい自分が遊んでいて、勉強に打ち込んでなられたお医者さんに力を求めるのは身勝手なことであると思うようになりました。それから成長にともなって完全主義の心になって、完全ではない自分は生きる資格はない」と常に自己否定するようになったのですが、最終的には悟りを得ました。大学時代に、親鸞聖人の「善人なおもって往生す、いわんや悪人をや」の本当の意味に気づいたのです。「悪人」とは「不完全な人間」であり、あっちにこっちにぶつかり、迷いの中にいる人間であるとわかり、そういう人間を救うために神仏はいてくれると気づきました。だから不完全な今のままの自分でいいんだと自己肯定感を確立することができました。



やりがいや葛藤を感じる瞬間についてお聞かせください。


私は東日本大震災の2か月後に市長に就任したので、防災に関して異常な緊張状態にあり、肩に重たいものが乗っかった感じでした。具体的には、放射線対策問題で市長会では「各市個別の対応ではなく政府の対策を待つ」となった一方で、市民の不安は日に日に増大していく現状に葛藤を感じました。このときに、清瀬市内の大学と連携して、測定と職員に問題の解説、指導をいただいて対応しました。
やりがいを感じた出来事としては「赤ちゃんのチカラプロジェクト事業」があります。市内のNPO法人が、学生に赤ちゃんとふれあう機会を提供する取り組みを一部の学校と連携しておこなっており、これを市内全小中学校に広めることにしました。この成果は、体験した生徒の「私の体験・主張発表会」に応募した作文にも表れており、生徒たちに人に優しくする心が芽生えたこと、心が豊かになっていくところを実感することができました。



市の運営についてお聞かせください。


まずは減災・防災を最重要課題にしています。市民の安全・安心を守るという観点から、備蓄食料や備品を計画的に整備したり、耐震化が必要な公共施設につきましては公共施設耐震化検討特別委員会を設置して、これらの工事を計画的に進めていくことにしております。
これらの費用を捻出することは容易なことではありません。ですが、近年の大震災の教訓をふまえて、市民の生活や命を守るのは行政の最大の役割であるという認識に立ち、今後は10年間の財政状況とのバランスを図りながら、市民の皆様のご理解とご協力のもとで計画を進めていきます。



今後清瀬市をどのような市にしていきたいですか。


清瀬市の面積は10.19㎢で多摩地域では4番目に小さな面積ですが、清瀬市には各界のゆかりの著名人や気象衛星センターなど、魅力的なものがたくさんあります。特筆すべきことは「清瀬が世界を救ってきた」という歴史的事実です。今では年々患者が減り続けている結核ですが、かつては感染率や致死率の高さから「亡国病」と言われていた病でした。そんな結核と清瀬市との結びつきは、昭和6年に東京府立清瀬病院が開設されたことに続き、相次いで結核療養所(サナトリウム)が開設されたことから始まりでした。その数は多いときで15か所あり、5,000人が療養生活を送っていました。これだけの規模のサナトリウムが集中する地域は、世界でも例がなかったそうです。市内にある「結核予防会結核研究所」による研究で生み出されたワクチンは、結核対策に世界的な貢献を果たしてきました。世界の結核研究者の間では、「KIYOSEは第2の故郷だ」と言われているそうです。
人がそのまちに住む理由は人それぞれですが、誰もが住んでいるまちを誇りたい気持ちはあると思います。「手をつなぎ 心をつむぐ みどりの清瀬」という市のスローガン達成のために、先人の苦労や努力、地域の歴史を一人でも多くの市民に知っていただき、このまちが郷土愛で包まれるまちにしていきたいというのが私の夢です。



今後の市政と若者の繋がり作りや、若者を巻き込む施策をお聞かせください。


現在のところ特に若者向けの施策を展開してはいません。ですが、個人的な交流から、若者との施策を考えていきたいと思います。消防団は20代から40代前後の男性で構成されています。私は32年間消防団員でしたので、今でも団員の青年と強い信頼関係があります。青年会議所にも10年間いたので、会議所の若い世代とも付き合いがあります。清瀬市内には大学が3つありますので、学生が市民祭りやさまざまなイベントに参加してくれて、一緒に盛り上げてくれています。
加えて何より、卒園児の若者たちがいます。様々に成長をした小学校2年生~40歳くらいまでの卒園児が、挨拶に来てくれたり結婚式に呼んでくれたりします。



若者に向けてのメッセージをお聞かせください。


先ず、人生を充実させていくために、目の前のことについて、身近なことについてたとえ小さなことでも、しっかりと対応し誠意を尽くしていくための努力と実行力が大切だと思っています。別の表現をすれば、いわゆる5ゲン主義、現場にへばりつくこと、現実・現物をみること、原理・原則を大事にすることが必要になってくると思います。
その上で、「運鈍根」を大事にしていけば、道が花開けていきます。運を引き寄せるには鈍いほどの粘り強さ、根気が必要ということです。別の表現をすれば5つの「こみ」、「入れ込み・惚れ込み・仕込み・口コミ・コミニケーション」を徹底することです。
体験談としては、小中学校の算数の先生の算数大会の現場にいたことが転じて、教育書籍や幼児教材づくりに関われるようになったことがありました。また、スポーツクラブ事業では損害も出しましたが、人任せにせず現場に張り付くことで、優秀な社員と1,700名の会員を得て、武蔵野線の通勤線への変更という幸運にも恵まれました。
世の中の役に立つ、これを真ん中に据えていれば、至誠通天-市政通天という意味でもあります-、つまり天に通じて幸運に恵まれるものです。





早稲田大学政治経済学部卒業
(学)清瀬富士見幼稚園 園長
(株)東所沢スポーツクラブ創立者
清瀬消防団副団長(平成2年~平成22年)
清瀬市議会議員4期(平成7年~平成23年)
清瀬市議会議長(平成15年~平成17年)
清瀬市長(平成23年5月~)
※プロフィールはインタビュー時のものです。

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